前回はシアトル航路の創設の経緯と1918年頃のシアトル航路と大陸横断鉄道に関する記事について紹介した。今回は1919年以降のシアトル航路の発展の様子についてお伝えしたい。
最短の世界航路
「日米航路と欧州航路」(1919年3月8日号)
「日本ではやれ視察、やれ漫遊と休戦後の欧米旅行が大流行である。(中略)横浜からパリに行くにはシアトル航路と欧州航路(横浜―インド洋―パリ)の二つがある。シアトル航路、大陸横断鉄道経由(シアトル―シカゴ)の一等で乗り継いでパリまで行くと途中のお弁当代、宿泊料を含んで、927円(現在価値で約90万円)、二等で乗り継いでいくと合計582円(現在価値で約60万円)。一方、インド洋経由の欧州航路でパリまで行くと、一等で合計710円、二等490円となる。シアトル航路、大陸横断鉄道を使えば合計27日で行けるが、欧州航路は52日かかる」
日本郵船シアトル出張所が支店になった経緯について、シアトル出張所副長の中瀬精一氏が次のように語っていた。
「シアトル市と郵船会社」(1920年1月1月号)
「1896年にシアトル航路が開設されてからは、日本郵船はシアトルでの一切の業務を大北鉄道に委託していた。しかし、シアトルが貿易港として発展していく中で1911年に出張所を設け、初代所長が大北鉄道のスタッドレー氏だった。そして更に発展するシアトルがニューヨーク、シンガポールと同じく、1919年11月の総会で支店に昇格され、支店長は日本人を以て任ずるということになって横浜支店副長の渡部水太郎氏が赴任することになった。それと同時に自分はニューヨーク支店副長となった」
下記の記事には、シアトル航路が最短の世界航路であることが記述されていた。
「将来の世界航路は太平洋の日米航路」(1920年1月17日号)
「北米時事記者が横浜支店を訪問し引見した。渡部氏によるとシアトル航路は南方航路(横浜―サンフランシスコ).に比して、約1000マイル近い。大陸横断鉄道もグレートノーザン鉄道の方がサンフランシスコーシカゴルートより近い。世界旅行者にとって最も便利」
日枝丸、氷川丸の活躍
1930年以降、シアトル航路は氷川丸、日枝丸、平安丸3隻が主力船となった。
「太平洋横断100回満願高橋船長」(1934年11月30日号)
「日枝丸高橋船長の今度の航海が100回太平洋横断となった。先般山口船長の100回航海のお祝いがあったのに次ぐ。高橋船長は自宅でつつましやかなお祝いをした。口でこそ100回だが、普通太平洋を渡るには二週間かかるこの頃では1年に7航海になって、1年の内、家にいるのは21日、来る日も来る日も空と海の碧一色という次第だから、この記録は誠に貴い。
『僕のように感じの鈍いもんでないと船乗りは出来ん。昔からすこしぼんやりしていたが、それがよかったのだろう』と言った船長には奥ゆかしい。(中略)太平洋のレコードは1909年練習船で横断して以後まるっきりこの海が故郷になってしまった。1910年に東京商船を出て北野丸を振り出しに安芸丸、加賀丸、三島丸と行ったり来たり、今まで数を勘定したことはないのだが、ふと数えてみると、もう100回目だ。(中略)日枝丸だけでも26回目だ。時化けるのが当たり前のような北太平洋で、想い出もなきや、冒険もない」
「太平洋上の荒れを潜って氷川丸は明朝入港予定」(1934年12月26日号)
「日本郵船の氷川丸は明朝当地に入港するが、昨今の太平洋の空は荒れ模様、20日頃の無線では、洋上は大暴風雨の模様で、シアトルから1700マイル洋上で英国船ベンローソー号が破船し操縦機は破壊され、救命艇は波のために航行不能の状態に陥っている模様で船員40名の安否が気遣われている。
明27日入港予定の氷川丸は当時巧みに暴風圏外を走っていたが、昨日夕刻、あの荒れにストレートの入口で最後の埠頭をめがけて本朝ビクトリア前を航行したということであるが、明日の入港には差し支えはない模様。氷川丸は今年日本から入る便船としては最後のものである」
「郵船氷川丸本朝シアトル入港」(1934年12月27日号)
「今年シアトルに入る最終船として郵船の氷川丸が本朝当地に入港した。船長は金子文太郎。船客は△一等(船客名)△二等(船客名)△三等(船客名)」
又同日号の同頁の下の方に「名士来沙」として次のように掲載されていた。
「今朝入港した氷川丸に王子製紙会社大塚良教氏、呉海軍少佐高原久衛氏、三井物産、山田雄治氏等来沙」
『北米時事』は日本からの船がシアトルに到着する度に、上陸船客名をすべて克明に伝えていた。
平安丸
筆者の父、與(あたえ)は、1914年シアトルに生まれた二世だが、父親、與右衛門(よえもん)の死で1929年帰国した。1936年シアトルへ再渡航、1941年日本へ帰国時に、平安丸に乗船した。その時の様子を次のように語っていた。
「二週間の船旅で、必ずどこかの日に海は大荒れになり、船は激しく揺れた。10メートルにも及ぶ大波が船を襲ったが、船は横波を巧みに避け、波に向って巧みな操行をした。横波をまともに受けると船が転覆する危険性があった。この大きな揺れのために、ほとんどの人が船酔いし寝こんでしまっていた。自分は平気だったので、夕食時間に食堂へ行くといつもは満員のお客であふれているのに、誰一人おらずガランとしていた」
シアトル航路を操行した氷川丸、平安丸は、暴風雨の荒波にも耐える、非常に優秀な船だった。
日本郵船50周年
「郵船会社宛てに祝電」(1935年10月1日号)
「本10月1日の日本郵船会社創立50周年に当り北米日本人会商業会議所は当日正午同社に到達する様祝電を出した」
「来年は恰(あたか)も三池丸シアトル来航の40年祭」(1935年10月2日号)
―昨夜日枝丸で50年祭―
「昨朝の霧でドックの入口」に入って居ながら動きのとれなかった日枝丸は霧の晴れた10時入港。あたかも郵船の50周年祭と云ふので船は旗で飾られて居る。昨夜そのお祝に招待された日白人500人。入るとおでん、燗酒(かんざけ)ののれんが桜の立木越しにある。(中略)来年は三池丸がシアトルに来てから40年目、その時にはもう一度シアトルの人々と交換するつもりだと生駒支店長はいそがしい」
シアトル航路はシアトルの発展を支え、日系人にとって、懐かしい故郷、日本と結ぶ非常にかけがえのない存在だったのだ。
次回はシアトル在留日本人の理髪業の発展の様子についての記事を紹介したい。
(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)
参考文献
海外旅行案内社『米国旅行案内』1927年
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社1929年
日本郵船株式会社編『日本郵船五十年史』1935年
*本稿は、『北米報知』に2021年9月6日に掲載されたものに、加筆・修正したものです。