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2001年渡米、スタント・キックボクサー経てLAで飲食店5軒経営の三浦大和さん

実家は東京都内の料亭、渡米22年目の三浦さん。

ハリウッド目指して

ロサンゼルス郊外のアーケディアはサウスベイからもダウンタウンからも多少距離があり、筆者にとってはあまり馴染みがないエリアだ。サンタアニータ競馬場があること、その近くに巨大なショッピングモールがあることは知っているが、そこに日本人が経営する居酒屋TonChinKanがあることは、実は最近取材に行くまで知らなかった。日本人があまり群れないエリアで居酒屋を盛業させていることに驚いたが、オーナーの三浦大和さんは他にもダウンタウンとサンゲーブリエルにラーメン店を一軒ずつ、アーケディアに寿司店を展開していると知り、さらに驚かされた。そして、目の前に現れた当人はまだ30代半ば。しかも、元々の渡米の理由はレストラン経営ではなく、ハリウッドで活躍するスタントマンになることだったと言う。

生まれは東京。実家は毎晩のように黒塗りのハイヤーが表で待っているような料亭だった。「僕も小学生の頃から、板場に入って皿洗いや料理の盛り付けを嫌々ながら手伝っていました」。家業の手伝いの傍ら、三浦さんが熱中していたのがスタントだった。「12歳くらいから事務所に所属し、遊園地のヒーローショーなどに出演していました」。

中学を卒業すると、アクションスターのショー・コスギの下でアクションの修行を積むため、単身でロサンゼルスに渡ってきた。平日は高校で寮生としての生活、週末になるとショーさんの研修所で過ごした。そして、本来であれば、高校卒業と同時にショーさんの事務所に所属し、ハリウッドで本格的な活動が始まる予定だった。「ところが、ショーさんが拠点を日本に移すことになり、(ハリウッドで活動する)計画が頓挫してしまったのです」。

しかし、そこで大人しく日本に帰る気持ちにはなれなかった。アメリカでまだ挑戦してみたいと思った三浦さんは、大学の学費や生活費を工面するために、飲食店でのアルバイトをスタートさせたのだった。その時に、幼い時から両親が経営する料亭での経験が大いに役立った。10代後半から20代前半にかけては、リトルトーキョーの『鮨元』で働いた。そして同時にスタントマンとして、またキックボクサーとしての活動も続けた。

23歳で起業

キックボクサーとしても活躍。  

次の転機は、学生ビザが終了し、ステータスを取得しなければならなくなったことから、23歳で起業したことだ。「スタントやキックボクシングの仕事とも両立できるように、比較的自由に時間をマネジメントできるオンラインの旅行会社を立ち上げました。起業直後にはリーマンショックも経験しましたが、社員にも恵まれて間も無く創業15年目を迎えます」。三浦さんは会社設立により投資家ビザを手にした。現在、三浦さんがCEOを務めるBun Geiz Corporationの従業員数は50名を数える。

一方で、旅行会社を経営しながら、自分の飲食店を持ちたいと思い始めた三浦さんは、その夢を28歳で実現する。比較的、投資を低く抑えることができるラーメン店に狙いを定め、サンゲーブリエルにBentenラーメンを、3年後にはロサンゼルスのダウンタウンにDTLAラーメンを開け、人気ラーメン店に成長させた。さらに、Bentenラーメンの開店当時からの従業員をマネージャーに抜擢し、2018年に居酒屋 TonChinKanを開業した。その2年後、パンデミックに突入すると、鮨元時代の先輩の協力によりテイクアウトの鮨の提供を始めた。その流れで2021年11月には、その先輩、山田浩彰さんを料理長に迎えた鮨店、㐂扇 を開店した。ともすると消極的になりがちなパンデミックの時期に攻めの姿勢を貫き、それが全て結果に結び付いている要因は、三浦さんが持つ「生来の経営者資質」かと思われるが、本人は「人との出会いでここまで来ることができた」と謙虚だ。

異文化の中に身を置きたい

今後の夢は「特になく、何かを達成したいというよりも、自身をいかに多感な人間に成長させ続けることができるかが目標であり、夢だ」と話す。しかし、人が聞けば驚くような新プロジェクトが実は現在進行中だ。三浦さんにとって5店舗目になる店を近くビバリーヒルズに開ける予定だと言う。しかも、その店の前身は誰もが知る有名な高級日本料理店。三浦さんは以前に親交があったその店のオーナーシェフを訪ね、なんと皿洗いのアルバイトを申し出たのだそうだ。そして、結果的にその店を譲り受けることになったと話す。

「本当に周りの人に恵まれています。そう言う人たちに支えられて今があるので、そろそろ僕自身もしっかりしなくてはいけないと思うようになりました。もうすぐ5軒になる店の運営だって、現場のスタッフがちゃんとやってくれるから回っているわけで、僕の力は正直、1%にも満たないと思っています」。

鮨元で。「人との出会いに恵まれた」と振り返る。

会社は今年で15年目を迎える。投資家ビザから永住権への切り替え、またはアメリカ市民権を取得する予定はないのだろうか。

「永住権を取ってしまうと、年のうち半年はアメリカにいないといけないから、今はそのタイミングではないかなと思っています。むしろ、そろそろ他の国にも行ってみたいなという気持ちの方が強いですね。具体的にどこかと言われたらヨーロッパかな。アメリカに来た当時もそうだったんですが、言葉が通じない環境や異なる文化の中に身を置いてみたいんです。それによって新しいことに気付けたり、違いに目覚めたりすることができるような気がします」。異文化は覚醒のチャンスを与えてくれるということかもしれない。

最後に自身のアイデンティティについて質問した。

「日本人ですね。日本に帰ると、周囲からお客さんのような扱いをされてアメリカ人のような気持ちになります。でも、アメリカにいると、道具を大切にする精神だったり、道路にゴミが落ちていると自然とそれを拾う行動だったりが、自分が日本人であることを改めて教えてくれます」。

今後もロサンゼルスに軸足を置き続けるのか、またはヨーロッパにも拠点を広げるか、それとも故郷の日本が新たな舞台となるのか。そのどれであっても、三浦さんは人々に恵まれ、結果を出していくのだろうという確信に近い思いしかない。

 

© 2022 Keiko Fukuda

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