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米国で生きる日本人の選択

1963年渡米、2018年に日本へ 再び帰米予定の白澤誠さん

渡米のきっかけは『なんでも見てやろう』 

白澤誠さんは、過去、ロサンゼルスのダウンタウンに本部がある南加庭園業連盟の活動に積極的に取り組んでいた。同連盟主催の家庭菜園の講義を、7年間受け持ち、日本語新聞の『日刊サン』でも野菜作りの連載コラムを担当していた。さらに連盟のYoutube動画にも登場し、家庭菜園に関する情報を一般向けに日本語で発信していた。

南加庭園業連盟の動画に出演していた当時の白澤さん。

しかし、白澤さんはパンデミックを迎える前に、生活の拠点をアメリカから日本の鹿児島県に移し、現在も同県霧島市に住んでいる。当初私は、白澤さんはてっきり日本に「引き揚げた」のだと思ったが、パートナーと一緒に暮らすために「引っ越した」だけで、最終的にはまたアメリカに戻ってくる計画だと知った。

白澤さんが渡米したのは今から60年近く前の1963年のこと。小学校5年の社会科の教科書にあった日本とアメリカの文明の差に驚いたのが最初で、小田実の旅行記『なんでも見てやろう』に影響を受け、自分の目でアメリカを実際に見てみたいと思ったのが渡米の理由だったと振り返る。

「最初は旅行の資格でアメリカに渡りました。でも、半年だけでは到底アメリカを実体験するには時間が足りませんでした。それで、時間延ばしのために、大学に行くことにして学生ビザに切り替えました。私は日本の東京農大出身ということもあり、ロサンゼルス郊外にあるカリフォルニア・ポリテクニック大学で園芸を専攻することにしました。そして、在学中に好きな人ができて、その彼女と結婚しました」。

ビザは、妻となった女性が永住権を持っていたことで自身も永住権を申請できたそうだ。

卒業後、白澤さんが就いた仕事は庭園業と造園業だった。しかも最初から雇われることはなく、自営業者として起業した。

「グループの中で動いたり、人とやり取りしたりすることが得意ではありませんでした。自分一人で好きなように働けるということで、好きな庭園業と造園業に独立して携わることにしました。何のコネクションもなくゼロからのスタートでしたが、日系ではなくローカルの新聞に広告を出して口コミでお客さんを増やしていきました。学校で園芸を専攻したので自分のスペシャリティーでしたし、図面を描くこともできたし、日本庭園にこだわらずアメリカの庭も手がけていたことが(顧客獲得に)功を奏したのだと思います。また、日本人の造園師は細かいところにまでこだわって非常に質が良いという先人の評判に、私自身が乗っかった部分もあるのではないでしょうか(笑)」。

こうして、白澤さんは75歳まで現役で仕事を続けた。

「今も元気ですが、ずっと現場で働き続けたことが健康の秘訣だったように思いますね。また性格上、現場を従業員に任せっきりにできなくて、常に仕事場には私自身が足を運んでいました」。

日本に引き揚げる人には経済的基盤の整備を

前述のように白澤さんはポモナの大学で出会った女性と結婚したが、その妻を若くして亡くしてしまう。妻を亡くした当時、二人の娘はまだ中学生と小学生だった。現在、娘たちは成長して結婚し、コロラドとカリフォルニアに住んでいるが、白澤さんは敢えて同じアメリカではなく、パートナーと一緒に暮らすために日本に移った。

「私が病気にでもなったら、娘たちは心配して、私のために時間をかけて私を訪問し、自分たちの生活を犠牲にすると感じました。私は彼女たちに自分たちの生活を送ってほしいという思いから、日本に移り、同じような考えを持つ方と一緒に暮らしています。今は昔とは雲泥の差で、離れていてもフェイスタイムで毎週顔を見て話せますし、会おうと思えば飛行機ですぐに移動できます。しかし、日本では今も同棲という観念には抵抗があるようなので、最終的にはカリフォルニアの墓地に帰ることになると思います」。

アメリカに50年以上暮らし、今また日本で生活している白澤さんに日本とアメリカについて思うことを聞いた。

まずアメリカについては「アメリカでは自由に生きることができました。考え方が異なる移民同士が集まった国ですから互いをあまり意識することなく過ごせるからかもしれません。さらに、個人の自由を憲法で保障されているので、ますますその度合いが強くなっているのでしょう。私は外面的、そして内面的にも日本人ですから、他文化の価値に同調できないこともありましたが、互いにそれを認め合うことができたように思います」と話した。

そして、長年住んだアメリカと比較すると日本では次のような点で不便を感じると話す。

「まず道に名前が付いてないことが不便です。場所を探すのに時間を無駄に費やすこと大きくて、カーナビに頼ろうとしても、電波が届かないことも多く、非常に使いづらいです。クレジットカードも問題で、取る所、取らない所があって通用するかどうか常に闇です。少し大きな買い物をする時にも大きな現金を持ち歩かなくてはなりません。私は医院に現金を忘れたために、治療が終わってもそこから帰してもらえなかった経験があります。請求書を送ってくれと言っても対応してもらえませんでした。買い物に行く途中で現金が十分ではないかもしれないと心配になり、家に引き返したことさえありました」。

もちろん、良いこともある。「災害も多いけれど日本の風景は美しいし、日本食が食べられることが幸せの一つです。また、人々は親切です」。

白澤さんに、これからアメリカから日本に引き揚げる予定の人に何を準備すべきかと聞くと次のように答えた。

「経済的な準備が大切だと思います。確かに高齢者の医療費は安いですが、食料品などは高く感じます。私は畑を借りて多くの野菜を栽培しています。食料を得られるだけでなく、体と精神面での健康にも(野菜作りは)非常に良いと感じています。また、住居に関しては、日本に移る前にカリフォルニアの家を売却し、娘がいるコロラドに家賃収入のためにコンドミニアムを買い、残りの半分で日本に家を買いました」。

アメリカで家賃収入があること、また日本で家を購入したことで家賃は不要となり、生活の基盤を整えることができたと話す。

そして最後に、日本でもアメリカでも今後退職する人に対するアドバイスとして「日本でもアメリカでも退職した後の有り余る時間をいかに埋めるかを事前に考えておくことをお勧めします」と付け加えた。

 

© 2022 Keiko Fukuda

Makoto Shirasawa Southern California Gardeners' Federation

このシリーズについて

米国と日本の間で生きる日本人に、永住権取得や日本への引き揚げなど、人生の選択についてインタビュー。