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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その7:JALでの日々、そして柔道名誉殿堂入り

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空港勤めの仕事は、週末がないこともしばしば。そして1966年には息子が誕生し、敏幸、妻のみどりの生活は一気に忙しくなっていく。そんな中でも敏幸は時間があれば庭に出て一人で柔道の練習を続けていたという。1967年にはソルトレイクシティーで世界選手権大会があり、アメリカ代表として出場した敏幸は4位に入賞する。「最後に大会に出場したのは1970年ですね。その時は僕も30歳になっていました」。最後のUSナショナルチャンピオンシップでは、階級別で2位と有終の美を飾った。その後は各地の道場で柔道の先生として後進の指導にあたってきた。

皇太子同妃両殿下のブラジルご訪問。1978年5月。

一方で、カウンター業務から始めた日本航空(JAL)の仕事では、日米両方の言語と文化に精通した敏幸はめきめきと頭角を表し、重要な役職を任されていくことになる。1978年には、日本人ブラジル移住70周年を記念し、当時の皇太子同妃両殿下がブラジルをご訪問になる。その訪問に際してはJALの飛行機2機がチャーターされたが、行く先々で待機し、訪問が滞りなく進むよう手配するスタッフの一人に敏幸も選出される。

「僕はロスからマイアミに飛んで、そこからブラジルに。飛行機が着く前に先回りして、機内食などを準備するのです。サンパウロではたまたま僕の母の家族で移民で行っている人がいて、そこに行って一緒に食事をしたのを覚えています」。

皇太子同妃両殿下のブラジルご訪問をサポートするJALのスタッフら。1978年5月。

その皇太子同妃両殿下ご訪問サポートのスタッフの一人であった、JALサンフランシスコ支店の支店長が敏幸の仕事ぶりに目を付ける。「ロスに帰ってきてしばらくしたら、『サンフランシスコの支店長がお前に来てほしいようなことを言っているよ、どうする?』と言われたので、『いいよ』」と。軽く答えた敏幸だが、家ではちょっとした騒動があったとみどりが話す。

「息子は8年生で、友達から離れたくないんですね。それに海が好きな子なんですが、サンフランシスコに着いてビーチに連れて行ったら霧で何も見えなくて(苦笑)」。

サンフランシスコ時代。1984年6月。

都合12年、サンフランシスコで勤務した後、思いがけずシカゴ空港の支店長の話が舞い込んでくる。「それまで空港の支店長はみな日本から来ていて、アメリカで日本国籍でない人が空港の支店長になるのは初めてでした」と敏幸。週に3便であったシカゴ便が、1989年から毎日運航になる。会計の仕事をしていたみどりは後を追いかける形で、先に敏幸一人がシカゴへと転居した。

夫の暮らすアメリカへ、そしてロサンゼルスからサンフランシスコ、続いてシカゴへと移動する中で、不安はなかったのですか?とみどりに尋ねると、「その時は大変でしたが、移動する先々でとても楽しい体験をさせてもらいました」と朗らかな笑顔が返ってきた。「バタバタしているうちに年数が経っちゃったといえばそういうことでしょうかね。子育ての手が離れてから何かしようと思って、サンフランシスコに行ってからアダルトスクールやカレッジに通って会計を学びました。敏幸の希望で日系の企業には務めるなと言われひたすら新聞の求人広告で仕事を探しました」。

合計7年に及んだシカゴ暮らしが終わりを迎えようとする頃、二人はそろそろリタイアをして、ロサンゼルスまでロードトリップをする心算であったと話す。「そうしたら『ロサンゼルスの空港の支店長が日本に帰るから、ロスにもう一回帰らないか』と」。1997年9月にロサンゼルスに戻った敏幸は、2002年にリタイアするまで37年間、JALで勤め上げた。その間には日本の高度経済成長や日本企業の海外進出、バブル崩壊など、日本経済の栄枯盛衰があった。時には経済的な力を背景に理不尽な態度を取る日本人客もいたようだが、客を尊重しつつも、敏幸はその切れ味の良い跳腰同様、言うべきときにはきちんと筋を通したという。

アメリカ柔道栄誉殿堂入りし、スピーチをする敏幸。ラスベガスにて。2019年6月。

1997年にロサンゼルスに戻ってからはガーデナ柔道クラブでテクニカルアドバイザーとして柔道を教えてきた敏幸だが、2002年にリタイアしてからはカリフォルニア各地の道場から頼まれて柔道クリニックも開催してきた。そして2019年には柔道界に多大な功績があった人の名誉を称える「アメリカ柔道栄誉殿堂(USA Judo Hall of Fame)」にほかの8人の柔道家と共に殿堂入りする。この栄誉を受けたのはこれまで22人のみである。

同時に栄誉殿堂入りした柔道家たちと。左からポール・マルヤマ、カズオ・シノハラ、ジム・コルガン、ハロルド・シャープ、敏幸、レネ・ズィーレンバーグ。2019年6月。

その後、ご存知のように2020年にCOVID-19によるパンデミックが発生し、ロサンゼルスではほとんど対面の活動が休止することになり、その間、敏幸はZoomを通して柔道を教えて続けてきた。日本に暮らす息子一家ともZoomを通して会話をしているという。「息子は米国で学校を出た後、日本に移住してしまいました。子どもの頃、毎年夏休みに私の実家の広島に連れて帰っていたせいか、日本が大好きな子になりまして、日本の会社に入って、日本で素敵な奥さんを見つけ、二人の子供にも恵まれ楽しい家庭を築いています」とみどり。

柔道名誉殿堂入りを家族でお祝い。息子一家と共に。2019年7月。

ロサンゼルスからアーカンソー、ツールレイク、鹿児島、神戸、デンバー、ロサンゼルス、サウスカロライナ、再びのロサンゼルス、アリゾナ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴ、そしてロサンゼルス…。あちこちに移動して、そこで生活を築き、柔道をしてきた敏幸。「行ったり来たりが当たり前だと思っていて、簡単に動けるものだと思い込んでいて、パンデミックで調子がくるってしまいました」。もう日本には3年以上行っていないという。「今年は行けるといいですが」。

とはいえロサンゼルスでも敏幸は忙しい。柔道に加えて、みどりが関わってきたASAでも理事として活躍、さらに会長を務める「加世田会」は2024年には100周年を迎えるという。「僕の両親の田舎の津貫は、鹿児島の加世田市の中にあって、その周辺からアメリカに来ている人が結構いるのですよ」。加世田会は、加世田とその周辺にルーツを持つ人々の集まりである。「今、加世田会のメンバーは50人くらいいるのかな。創立してまもなく100年だから、100年祭ができればよいなと思っています」。

 

© 2022 Masako Miki

Japan Judo Kibei Nisei Toshiyuki Seino

このシリーズについて

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。