ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/11/30/9333/

第10回(その4)『北米時事』の歴史—有馬純義

前回は『北米時事』女性社員の投稿記事と5000号記念の時の記事及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたが今回は日本人会会長であり、新聞記者でもある有馬純義が書いた記事を紹介したい。
 

日本人会長としての有馬純義

有馬純清(すみきよ)が社長を退いた後、長男の有馬純義(すみよし)が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーのためにも活躍した。

1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に有馬純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。

「有馬氏帰国」(1938年3月4日号)

「本社有馬純義は予て帰国準備中であったが、本日出帆の氷川丸にて家族同伴にて約3ケ月の予定で帰国」

「日商臨時参事委員会」(『北米時事』1938年3月4日)

「有馬氏へ留任勧告」(1938年3月5日号)

「昨日開いた日商臨時役員会で名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏の列席を求め、新たに選ばれた有馬会長辞任の件につき協議して、留任を勧告する事に決し、直ちにバンクーバーに今朝入港する氷川丸までその旨打電」


有馬純義は氷川丸船中からこの時の心境を次のように語っている。

「北米春秋:離愁」(1938年3月8日号)

 「僕の出発に当たり、二三の人々から『日本人会をどうするのか』と質問され詰問された。それに対して僕は答える言葉がない。然し乍ら僕にはどういう責任があるのだろうか。一船延ばせぬかという忠告もあった。それには困るが又感謝もする。

僕は自ら不正はして居らぬと確信している以上、たとえ一時の誤解を招くとも、必ずその誤解は分明すると信じているからだ。何故自分の信念が人々にわかってもらえないのだろうかと憂ふることはない。やがて解る。(中略)

僕が時に日会に対して苦言を呈するのは日会を愛する故にだ。どうでもよいと思えば何を好んで苦言など呈しようか。僕に日会長たるの野心ありと、或る人々が云っているそうだが、そんなにまで思われる程、僕は不徳なのだろうか。勿論僕は何の弁明の必要は認めぬ。だが残念に思う。僕は会長に選挙されてそれを知らぬふりして日本に帰るのではない。僕は最初から今日の事情においてそれをお断りしてある。一体この無理は何処にあるのか。そして何故に追ってくるのか。僕は敢えて一部有志家諸君の猛省を促さざるを得ぬ。而して大多数の同胞諸君の正しき判断に信頼するものである。(3月4日、氷川丸船中にて)」

「本社の有馬氏帰米を延ばす」(1938年7月11日号)

「有馬純義氏は健康を害し保養のため今春一時帰国したが依然健康を取り戻すに至らず。帰米を延ばす。(中略)今回帰米期を延期し健康回復の上で渡米する旨の通知があった」

「有馬会長の辞表受理」(1938年9月3日号)

「日商臨時役員会が昨日開催され、有馬会長辞任の件に関し種々協議の結果、之を受理することに決した」

有馬純義が日本人会長職を辞退した真相は定かではないが、日本人会長職は本来奉仕機関のリーダーであるべきものが、名誉職化されていることへの反発が、辞任の原因ではなかったかと筆者は考える。有馬純義はシアトル日本人社会のために働きたいという強い奉仕精神を持っていたようだ

新聞記者としての有馬純義

有馬純義が『北米時事』に投稿を続けた連載コラム「北米春秋」から、同氏の記者としての立場が分かる記事を紹介したい。

移民地新聞記者の悲哀(一)(1935年10月29日号) 

「移民地の新聞は比較的自由である筈だ。日本のそれの如く、官憲の直接の圧迫、干渉もない。記事の禁止など云ふこともない。記者の自制―常識と見識の判断によって自ら制する以外に筆の自由の束縛するものはないはずだが、なかなかそうは行かぬ。『あそこの店は安くて品が良い』と書くと、こちらの店から不平が出る。あそこの店を除いて書くと『こちらのはまずいか』とおっしゃる。活動写真があったら必ず景気がよくて満員で、写真は文化的で教育的だと書かねば承知されない。この調子だと移民地の新聞記者はたいこ持ちでなくば務まらぬ。人口の年々減ずるこの時代には、誠実大儀に頭を下げるより他はない。編集の方は兎(と)に角(かく)、営業の方では喧嘩が何より禁物だ」

「北米春秋、移民地新聞記者の悲哀」(『北米時事』1935年10月29日)  

 一読者としての『北米時事』への注文(1939年4月22日、24日号)

「北米春秋、一読者としての『北米時事』への注文」(『北米時事』1939年4月22日)

「僕は今、日本からも毎日、本稿の原稿を書いては、船便ごとに送って居る。僕がポートランド支社で通信の筆をとるようになったのが1917年だから、それ以来北米とは二十何年かの関係だ。

僕は米国から送られてくる『北米時事』を一読者として読む。編集の諸君にも相談し、又一般読者諸君の要望はどうか、考えてみたいと思う一つの問題がある。最近、余りに日本のニュースのみを重く取り扱い過ぎることである。(中略)

在米同胞が何より先に聴きたいのは日本からのニュースだ。それと同時に是非とも知っておらねばならぬのは米国の事情だ。前者に対しては、邦字新聞は今や百パーセントのサービス振りだが、恨むらくは後者に対して充分に手が届いておらぬのである。(中略)

米国議会のニュース、経済界の動き、或はシアトル市政の模様、米人社会の動きなどと云ふことは米国に在住するものとして是非一通り注意し知って置かねばならぬ事柄である」

1939年頃は日米関係が悪化してきた時期だが、有馬社長は『北米時事』がシアトルに住む日本人にもっとアメリカの情報を提供し、日本人が米国と共存共栄していけるようにすることが邦字新聞の役目だと主張している。

次回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

 

参考文献

伊藤一男 『続北米百年桜』日貿出版、1971年
伊藤一男『アメリカ春秋八十年 -シアトル日系人創立三十周年記念誌-』PMC出版社、1982年
『北米報知』創刊百周年記念号、2002年秋
有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年2月4日に掲載されたものに修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

アメリカ シアトル ワシントン コミュニティ 北米時事(シアトル)(新聞) 新聞 日本語新聞 移住 (immigration) 移住 (migration) 移民
このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

第1回から読む >>

* * * * *

『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

詳細はこちら
執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら