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アメリカの日本語媒体

第10回 1975年から2010年まで発行・日系文化を育む雑誌『TV FAN』

日本語テレビ番組を紹介

私が初めてフリーランスのライターとして活動を開始したのは2003年、原稿を書かせてもらった雑誌の名前は『TV FAN』だ。以降、同誌の最後の発行人となった竹内浩さんが2010年に発行を止めるまで原稿を書かせてもらった。そして休刊後、日系のイベントに行くと、「『TV FAN』はもう発行されないのですか?」と読者から度々質問された。あれから11年経ち、今はもうさすがに聞かれることはなくなったが、質問されていた頃は「『TV FAN』は随分と熱心な読者に支持されていたのだ」と改めて実感したものだ。

『TV FAN』創刊号

竹内さんを「最後の発行人」と書いたのは、彼の前に2名の発行人がいたからだ。創刊は1975年。故塚原孝吉さんが、ロサンゼルスで放送されている日本語テレビ番組のプログラムを紹介する雑誌として世に送り出した。当時、日本のテレビ番組の放送局は4社あったそうで、インターネットもない時代、日系社会の人々はドラマをはじめとする日本の番組を楽しみに日々を生活していた。ドラマの放送時間には、リトルトーキョーの街から人の姿が消えてしまったと聞く。

それらの番組紹介を記事にして載せた『TV FAN』では、日系社会の歴史を辿るコラムも人気を集めた。テレビ番組の詳細が分かると同時に、自分たちが暮らす日系社会について深く知ることができる日本語雑誌として、塚原さんの後を継いだ故片桐信行さんが発行人の時代も同誌は熱心な読者に支えられた。

そして、竹内さんが片桐さんからビジネスを買い取ったのが1998年。それまで日系企業の米国現地法人の代表を務めていた竹内さんだが、親会社の倒産により、新たなキャリアを模索する必要性に迫られた。そして、選んだ仕事が、若い頃に映画批評を書いていた『TV FAN』の3代目発行人だった。

現在は引退してサンディエゴ近郊に住む竹内さんに「なぜ、雑誌の発行人になろうと思ったのか」と聞くと、「日本の大学生の時代にキネマ旬報という雑誌でアルバイトをしていました。そういう経験から、もともと編集という仕事に興味があったのかもしれません。私が発行人になった当時は、テレビ紹介は4、5ページ程度。あとは(エッセーの)書き手の方が7、8人いました。オフセット印刷から輪転機に変え、ページ数を増やし、発行部数も1万5000部にしました」と答えた。

その頃、すでにテレビ紹介がメインのコンテンツではなかったのになぜ雑誌名を『TV FAN』のままにしたのだろう?その疑問には「あまりにも深く、『TV FAN』という名前が読者の間に浸透していたのです。ですから、いじって変えない方が良いと判断しました」との返答だった。


日系人の人生に光を

竹内さんの代からは新しい試みもスタートした。「日系社会で活躍した人の業績を紹介する『人に歴史あり』という企画や、また3世以降の日本語を理解しない新世代の日系人のために英語のページも設けた。比較的、年齢層が高かった読者に向けて「遺産」をテーマにした特集記事を組んだこともあった。その号は配布後瞬く間にさばけ、「どこに行ったら入手できるか」との問い合わせの電話が多数寄せられたと竹内さんは話す。

雑誌の発行と並行して、「市民権発行の手引き」「Japanese names for baby」といった単行本の権利を取得し、日系書店でも販売した。さらには日系人に関わりのある書籍を日本の出版社から取り寄せ、誌面で広告を打つとかなりの手応えを得た。「執筆者の渡辺正清さんの本などは、広告を出すと200部近く売れました」と振り返る。

テレビ番組紹介から日本語エッセー、人物インタビューと豊富なコンテンツから構成。2007年5月号は実に72ページのボリューム。

さらに、竹内さんには『TV FAN』を通じて叶えたい夢があった。「作家を一人育てたいと思っていました。それは実現しませんでしたが、うちに数回投稿した方の作品が文藝春秋社の『人間はすごいな ‘11年版ベスト・エッセイ集』に掲載された時は、自分が育てたわけではないけれど良かったなと思いました」。そして同誌は、TV番組紹介、エッセーや特集、人物インタビュー、料理以外に、短歌や俳句の投稿コーナーも設け、キャッチフレーズの「日系文化をはぐくむ月刊誌」としてのカラーを益々強くしていった。

しかし、2000年以降は日本からの進出企業の数が減り、広告収入で成り立っていた無料雑誌としては経営的に厳しい状況に立たされるようになった。無料配布以外にも全米に800人の定期購読者を抱えていたが、「読者の年齢層が高いことから、日本語を読める読者の数が時を経るにつれて減ることはあっても、増えることはありません」。そして、竹内さんは2010年、休刊を決断することになった。

『TV FAN』を12年発行した経験から何を得られたかを聞いた。「日系人の生き方についての理解が深まりましたね。私は有名な人だけでなく、名もない人にも光を当てて、その人生を誌面で紹介してきました。そして、嬉しかったのは、シカゴの博物館から、日系社会の記録として『TV FAN』を全号譲ってほしいとの依頼を受け、誌面で読者に呼びかけたところ、1975年の創刊号から360冊保管していた人が2人いたことでした」。

読んだら処分される情報誌ではなく、何度も読み返したい「残る雑誌」として愛された『TV FAN』。執筆者として10年近く携わった私も、その期間の全号を本棚に大切に保管している。

 

© 2022 Keiko Fukuda

Japanese language Los Angeles Magazine

このシリーズについて

アメリカ各地で発行されている有料紙、無料紙、新聞、雑誌などの日本語媒体の歴史、特徴、読者層、課題、今後のビジョンについて現場を担う編集者に聞くシリーズ。