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バンクーバー朝日:殿堂メダリストの家族探索

バンクーバー朝日初代選手—近藤与左衛門

戦前に大活躍した カナダの伝説の強豪日系人野球チーム、バンクーバー朝日は、遠い日本ではほとんど知られていなかった。しかし、2003年、2005年の殿堂入りで話題になり、1914年の創部から百周年にあたる2014年、日本映画『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)が制作された。その年、日本よりも早くバンクーバー国際映画祭で初披露され、観客賞を獲得した。

その3年前の2011年2月、多数のバンクーバー朝日選手を輩出した彦根の市役所で北米移民展が催された。その時展示されたバンクーバー朝日の集合写真を見て、そのうちの一人で氏名不明と記載されていた選手が、近藤与左衛門だと気がついた人がいた。与左衛門の娘、さだこだった。息子の正良と共に訪れていた。

バンクーバー朝日の集合写真(1915年)。前列の左から2番が近藤与左衛門選手。氏名不明と記載されている。なお、前列の右端は私の叔父(嶋正一)選手。 (写真提供: 日系文化センター・博物館、1994.60.22)

そしてその3年後の2014年、前述の映画が上映された。この映画をみた正良は、彦根市役所で見たのと同じ写真を目にし、さっそく与左衛門とバンクーバー朝日について調べるが、特に新しい情報を見つけることはできなかった。

孫の近藤正良

しかし、その頃正良は同じ地元でプラスチック加工業を営む松宮哲がバンクーバー朝日の調査を行っている旨の新聞記事を読み、早速連絡をとった。松宮哲は、祖父の外次郎が初期バンクーバー朝日の会長だったこともあり、私と共にバンクーバー朝日選手の家族調査をおこなっていた。

孫の正良は与左衛門(1898ー1963)の生涯について我々に教えてくれた。 

左端が、近藤与左衛門

近藤与左衛門は、1898年、現在の彦根市八坂町に4人兄弟の長男として生まれた。1900年頃すでにカナダに渡っていた曽祖父の茂平の呼び寄せにより、1910~1911年ごろに小学校を出てからバンクーバーに渡った。バンクーバー朝日に参加したのは1915~1916年ににかけてで、この当時、近藤与左衛門は、製材所で働いていたと思われる。ちなみに、正良は、祖父与左衛門からバンクーバー朝日について聞いたことは無かったという。

1922年~1923年ごろ、与左衛門は隣町の林はな(1902~1990年)と写真結婚をした。その後、長女フミコが生まれたが、3歳の時火傷で亡くなった。1929年、次女のさだこが誕生した (2014年没)。その次女さだこの息子が、戦後の日本で生まれた正良だった。

この当時、与左衛門はブリティッシュコロンビア州インパネスキャナリーで鮭漁をしていた。鮭漁はハードな労働だったようだが、与左衛門はマネージャーに気に入られ、キャプテンとして自分の船を持ち、数人の漁師と働いた。

1932年に家族3人で一時帰国をしたが、バンクーバーに戻る前日、与左衛門は心臓の病で倒れ、彦根でしばらく養生することになった。丁度そのころ、さだこの耳が聞こえなくなった。

実は、さだこは3歳の時、妻はなが漁師たちの食事を作る間、2階から転落するという事故に見舞われた。落ちた時に鼓膜が破れたが、その時はかすり傷程度だと思っていた。しかし、さだこの耳が聞こえなくなり大阪の阪大病院で検査を受けたところ、この時の事故が原因だとわかった。医者には治らないといわれ、与左衛門はバンクーバーに戻ることをやむなく断念。現地と連絡をとり、船や家を処分した。

1935~1936年頃、阪大病院の医師から紹介された大阪の聾唖学校にさだこを入学させるため、与左衛門は叔父に借金をして、未知の地であった大阪の聾唖学校の近くの生野公設市場で、カステラ饅頭の店を始めた。店は結構繁盛し、叔父からの借金も返すことができた。叔父は、まさか返してもらえるとは思っていなかったようだ。

与左衛門は思慮深く、温和で人望があったため、後に大阪の焼物組合会長を務めることになった。
しかし、1943~1944年になると戦争の為、店などを残し彦根に疎開。終戦後は、しばらく進駐軍の通訳などを行った。終戦後、社会が落ち着きを取り戻すと、また大阪に戻り、旭区大宮町でパンの製造卸しを始めた。物の無い時代だったので、結構繁盛した。

1950年、さだこは、母親はなの兄の次男の良太郎(1930~1966年)を婿養子にむかえた。その後、夫妻には、正良(1952年~)と与志次(1955~2006年)が生まれた。

与左衛門はパンの製造だけでなく、ケーキの製造や菓子販売等もするようになり、その当時としては結構羽振が良かった。与左衛門は晩年、テレビの料理番組など見ては、レシピを真似て、色々な物を家族に作って食べさせていたそうだ。

大橋夫妻

なお、与左衛門の姉妹で長女いとは、同じく彦根出身の大橋勘四郎氏と結婚。アルバーター州テーバーにて農場を経営し、五人の子供(3男2女)を授かったことも教えてくれた。『ニューカナディアン』の新聞記事(1989年9月1日)によると、この当時夫妻には孫が15名、曾孫が6名おり、長男は農業と市会議員、次男は豪農、3男は教育者となり、一家は模範的な日系家庭だと賞賛されていたという。

正良からいただいた与左衛門に関するこの画期的な情報を、私はBC州スポーツ殿堂へ伝えた。その頃、偶々、新バンクーバー朝日野球チームが日本遠征をする予定だったので、新バンクーバー朝日チームのメンバーから孫の正良へ直接、殿堂入り記念メダルが手渡された。ちなみに、新バンクーバー朝日チームは、元祖バンクーバー朝日の設立百周年にあたる2014年に、その歴史的栄光を引き継ぐべく、バンクーバーで創部された若いチームである。

与左衛門家族は日本に戻ったが、親族の大橋家は現在もカナダで活躍しており、海を越えての両家の繋がりは続いている。

バンクーバー朝日の1914年の創設から百年以上を超えたいま、叔父、嶋正一のチームメイトだった与左衛門の子孫と知りあうことができたのは、ひとえにバンクーバー朝日の名声と知名度のお陰であり、私にとってこの上ない驚きと、慶びであった。

 

 

© 2021 Yobun Shima

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このシリーズについて

カナダの伝説の日系人野球チーム、バンクーバー朝日は、2003年にカナダ野球殿堂入り、2005年にBC州スポーツ殿堂入りを果たした。しかし、1941年に戦争が勃発しチームが解散してから既に60数年たっていたため、多くの選手またはその家族と連絡が取れず、殿堂記念メダルの多くを引き渡すことができないままでいた。

バンクーバー朝日の最初の選手だったライターの叔父、嶋正一もその一人だった。退職後、偶然それを知った嶋氏は、バンクーバー朝日のことだけでなく、ブリティッシュコロンビア州の歴史など様々な資料に目を通した。その後、未渡し殿堂メダリストであるバンクーバー朝日の元選手やその家族らを探し始めた。このシリーズでは、今までの調査の過程だけでなく、元選手やその家族について紹介する。