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アフリカ系アメリカ人コミュニティと日本人の親和性 - パート 3

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社会学者の川村忠雄とシカゴ大学

アメリカ黒人の研究川村忠雄著

ハリー・ジツゾウ・ハラダ(1919年12月15日にブッカー・T・ワシントンに日本人移民についての意見を尋ねる手紙を書いたジャーナリスト)がアフリカ系アメリカ人に関する本を書き上げたかどうかは、現時点では不明だが、カワムラ・タダオは実際に書き上げた。カワムラはシカゴ大学で学んだ社会学者で、彼の著書「アメリカ黒人の研究」は、戦前に専門的に調査され執筆されたアフリカ系アメリカ人に関する最初の日本の本と考えられている。1しかし、この本が1941年にカワムラが亡くなった後の1942年まで出版されなかったことは興味深い。

1893年に山口県に生まれ、1920年に同志社大学神学部を卒業した川村忠雄は、1922年にシカゴに渡り、シカゴ神学校の3年生に入学した。2 シカゴ神学校には過去に同志社大学の卒業生が多くおり、川村によると、同神学校の日本人卒業生は「日本の会衆派教会で最も活動的な要素となるだろうという。3

川村はかつて友人の一人と一緒にオハイオ州のオバリン神学校に通う気になったこともあったが、シカゴに留まり、シカゴ神学校を「私の家」と呼んだ。4同時に、1922年秋学期からシカゴ大学の社会学部の授業に出席した。5最終的に、1924年8月に神学大学院で修士号を取得し、論文「日本における水平移動の社会的意義」 6を執筆した。そして1928年春には社会学と人類学の博士号を取得し、論文「日本の産業と貿易の拡大が及ぼした日本の階級闘争」 7を執筆した。

この時点では、川村が「シカゴ社会学の中心人物と一般に考えられている」 8シカゴ大学教授ロバート・エズラ・パークの学生だったことがあるのか​​、あるいは、川村が「東洋人の心をアメリカ人に明らかにする」ために日本人移民から生涯の物語を集めるという、パークの1924年から25年にかけての太平洋岸調査に何らかの形で協力したのかは、はっきりしていない。9しかし、日本人学生協会の会長としてキャンパスライフを楽しみ、 1926年に日本人学生キリスト教協会のシカゴ代表としてプリンストン大学で開催れた全国大会に出席した後、1928年に川村が日本に帰国したことはわかっている。彼は1929年5月に文部省日本人学生調査課の職員としてシカゴに戻った。 12その後、国民精神文化研究所社会学研究主任に就任。13ジョン・デューイの随筆『ソビエト・ロシアの印象』とロバート・ローウィーの『原始社会』を日本語に翻訳し、それぞれ1930年と1939年に出版。

川村の学位論文のテーマである階級闘争は、シカゴのアフリカ系アメリカ人コミュニティに対する彼の個人的な見方を暗示している。川村の著書『アメリカ黒人の研究』を他の日本のアフリカ系アメリカ人に関する研究者の著作と比較した佐藤弘子は、川村の独自の強みは、1910年代から脚光を浴びていたが他の日本の研究者はほとんど注目していなかった社会主義者/共産主義者/急進派活動家スコット・ニアリングに学問的に焦点を合わせたことにあると主張した。14川村のニアリングへの愛着は、 19世紀後半の初めに初期の日本のキリスト教徒が社会主義に惹かれたのと同じように、川村のキリスト教的背景と何らかの関係があったのだろうか。

実は、川村の『アメリカ黒人の研究』はオリジナルではなく、スコット・ニアリングの『ブラック・アメリカ』を翻訳、要約、編集、増補したもので、ニアリングの著作をベースに、アフリカ系アメリカ人の歴史や文化、シカゴでの体験について自身の意見や解釈を加えたものだった。例えば、川村の貢献には、エイブラハム・リンカーン大統領や南北戦争を含む長いアフリカ系アメリカ人の歴史、「ワシントン海軍軍縮会議における黒人の叫び」と題するセクション、全米黒人地位向上協会、全米都市連盟、異人種間法人委員会の詳細な定義などがある。シカゴ南部に住むアフリカ系アメリカ人の生活についてのニアリングの記述に加えて、川村は「これが世界一の国を自称する米国が国民に与えている運命だ」とコメントしている。15さらに、ニアリングの本にはなかったネイティブ・アメリカンの歴史に関する付録も加えている。川村がアフリカ系アメリカ人に関する著書にネイティブアメリカンの歴史を加えた理由は不明だが、ニアリングが『ブラック・アメリカ』で「米国の支配階級は、アメリカインディアンと黒人という2つの『異なる』民族と親密な関係を築いてきた。インディアン文化は事実上絶滅した。この過程に抵抗したインディアンは死んでいる」と主張したことに対して、川村は責任を感じ、日本の読者に説明する義務があったのかもしれない。16

1926 年にシカゴ大学日本人クラブの会長を務めたカワムラは、日常生活の中でアフリカ系アメリカ人と何らかの接触があったに違いない。彼の個人的な経験に基づく観察や考えは、米国における「抑圧された人種」としての共通の経験に基づく、日本人とアフリカ系アメリカ人のつながりを強調していた。たとえば、彼はかつてサンフランシスコからの列車でアフリカ系アメリカ人のウェイターと親しくなり、その後数日間このウェイターの生活について聞いた。彼は、列車のウェイターが大学を卒業し、中西部の名門大学で法律の学位を取得していたが、彼の教育レベルでは仕事を見つけられなかったことを知った。18この経験から、彼はアフリカ系アメリカ人が教育を受けているにもかかわらず、就職する際に直面する極端な人種差別について書くようになった。この例を念頭に置いて、カワムラは、日本の学生も学費を払うために夏休みのアルバイトを探す際に同様の差別を経験していることに気づきました。19

次の文章は、シカゴ大学での河村自身の観察から引用されたものだろうか。教育差別に関する章で、彼は次のように書いている。「黒人の両側の椅子が空いているのは、白人の学生が黒人の隣に座りたくないからだ。それは体臭のせいだ。人種差別は体臭と関係がある。日本人は日本人として独特の匂いがある。私のアメリカ人の友人の一人が、日本人は臭いと言ったのを覚えている。しかし、日本人にとってアメリカ人も臭いのだ。」 20ニアリングは著書の中で教育差別について書いているが、 21こうした粗雑な観察を例として挙げてはいない。

白井勉三著『黒人虐殺史 リンチ物語』

『アメリカ黒人の研究』は1942年の河村の死後まで出版されなかったが、スコット・ニアリングの『ブラック・アメリカ』 (別名:白井勉三)の翻訳『黒人抑圧史 リンチ物語』は1931年に白井勉三のペンネームで出版された。白井(別名河村)は、引用された書籍と出版物のリストなど、いくつかの興味深い追加を除いて、ニアリングの原文に忠実に翻訳した。彼はまた、ニアリングの本から6枚の写真と重要な事実のリストを含めたが、これらは『アメリカ黒人の研究』には含まれていなかった。 『黒人抑圧史 リンチ物語』には、シカゴ・イブニング・ポストの写真家ジュン・フジタが撮影した1919年のシカゴ人種暴動の写真2枚が追加で含まれており、白井/河村によるオリジナルのキャプションが添えられている。白井/河村はまた、彼が『黒人抑圧史』で再出版した元の本の写真キャプションにテキストを追加した。たとえば、当初「ミシシッピ州で焼き殺された犠牲者の死を喜ぶ白人暴徒」というキャプションが付けられていた写真に、白井は「女性たちが犠牲者の焼死体を見て笑っている」と書き加えた。また、「テキサス州ウェーコで暴徒たちが最後まで陰惨な光景を楽しんでいる」というキャプションが付けられた写真には、「白人たちはまるで寄席にいるかのようにその光景を見ていた」と書き加えた。こうした編集上の変更は、カワムラのアフリカ系アメリカ人に対する個人的な感情を暗示している。

ニアリングは『ブラック・アメリカ』を、人類社会の将来に対する希望を表明して締めくくり、「資本主義帝国主義体制下の他の従属人種と同様、アメリカ黒人の解放は、黒人労働大衆が白人労働大衆に加わり、個人と人種の搾取の上に築かれた経済社会構造を粉砕し、労働者階級の管理下にある協同的な経済体制に置き換えたときにのみ実現できる」と述べている。22この一節を白井は翻訳し、 『黒人白外史 臨地物語』に掲載した。これに比べて、河村の『アメリカ黒人の研究』では、ニアリングの『ブラック・アメリカ』第 3 部「黒人の自由のための闘争」の一節が丸々省略されている。この部分で、河村は、社会主義がアフリカ系アメリカ人の平等のための闘争に役立つだろうという希望を表明している。なぜこのような省略が行われたのだろうか。そもそも、河村はなぜペンネームを使ったのだろうか。

1928年に帰国した河村は、日本政府、特に文部省で学生の問題を調査する仕事をした。社会主義への共感や傾向を公表する自由は感じられなかったのかもしれない。それが、ニアリングの本の翻訳にペンネームを使用し、 『アメリカ黒人の研究』の最後の章を削除せざるを得なかった理由かもしれない。佐藤弘子は、河村が『アメリカ黒人の研究』を執筆・出版した目的は、アメリカの「恥」を暴露することではなく、単にアフリカ系アメリカ人運動の将来を信じていたからだと論じている。23では、最後の章を削除したのは誰か他の人だったのだろうか。この本の序文は、日本の文部省の伊藤縁吉と哲学者の木原忠義によって書かれ、この本が第二次世界大戦中に出版されたことの重要性を強調している。この本はアメリカの人種差別社会の厳しい核心を暴露しており、伊藤はこの本が日本帝国主義のモットーである「八紘一宇」の重要性を強調するだろうと信じていた。24さらに、本のあとがきは、黒人問題が解決されるまでアメリカはその哲学を世界に広めるべきではないと主張する声明で終わっている。25このあとがきは河村以外の誰かが書いたのだろうか?

『アメリカ黒人の研究』の出版を死後まで延期したことが河村の決断であったかどうかは不明だが、生前、この本が印刷されるのを見なかったことは、社会学者としての彼の学問意識の究極の表現であると言えるかもしれない。日本の政治情勢においてこの本がどのように解釈されるかを予測したために、出版を延期したのだろうか。

1924年5月にクーリッジ大統領が移民法に署名し、事実上米国への日本人移民が終結した後、シカゴ・ディフェンダー紙は「排斥法案は日本人に教訓を与えるべきだ」と題する記事を掲載した。26記事は、「議会が誇り高く立派な国民にこのような侮辱を与える必要があると考えたことを、我々はアメリカ国民として残念に思う」と述べていくらか同情を示したが、編集者は「我々の一部と同様、日本人は白人の支持を得ることに忙しすぎる」と書き、「おそらくこれは誇り高い日本人にとって、白人の兄弟をもう少し注意深く観察し、他の肌の黒い親族にもっと同情を示す教訓となるだろう」と書いて日本人を批判した。

シカゴ・ディフェンダー、1924年6月21日

ニューヨークの日本人共産主義者で、片山潜の親しい同志だった西村義雄は、シカゴ・ディフェンダーの記事に次のように反応した。「労働者階級の一員として、日本が白人アメリカ人に媚びへつらうのは間違いだったというあなたの意見に賛成します。また、人種差別の境界線で私たちと同じ中国と韓国に対する日本の帝国主義的な態度にも反対します。あなたの肌の色が何であれ、それを誇りに思ってください。今こそ、この世界の黄色人種と黒人種が、人類の最終的な解放のために手を打つ時です。」 27

「あなたの肌の色が何であれ、それを誇りに思え」という言葉は、西村氏らが政治的イデオロギーの違いを乗り越えて人種差別に反対の立場をとることを可能にした「人間の解放」の追求における、自らを肌の色にとらわれない自覚的な誇りの形として読み取れる。1942年、シカゴ・ディフェンダー紙で同様の論調が聞かれたが、今度は保守的な同化主義者でカナダ系日系二世のサミュエル・イチエ(SI)・ハヤカワ氏によるものだった。彼は「日本人のバックグラウンドに制限されたり、型にはめられたりしないという決意を繰り返し表明し」、また「原則として民族に基づく組織に反対した」 28

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ノート:

1. 佐藤弘子「河村忠雄長アメリカ黒人の研究会」東京女子大学紀要第39号、66頁。

2. シカゴ神学校年次カタログ、第65学年度1922-1923

3. 川村忠雄「門の中の異邦人」シカゴ神学校記録1925年1月第15巻第1号

4. 同上

5. 大学事務局長、シカゴ大学図書館特別コレクションとの個人通信

6. シカゴ大学卒業式プログラム 1924年8月29日

7. シカゴ大学卒業式プログラム 1928年3月20日

8. パーソンズ、ストウ『シカゴにおける民族研究 1905-45』 45 ページ

9. 同上68ページ

10.キャップ&ガウン、 1926年

11.新世界1926年9月13日

12. 島津美咲、米国シカゴ日本人YMCA訪問者リスト

13. シカゴ大学雑誌、第31巻第7号、1939年4月

14.佐藤、70ページ

15. 川村忠雄『アメリカ黒人の研究』 106ページ

16. ニアリング、スコット『ブラック・アメリカ』 6ページ

17. デイリー・マルーン、1926年3月10日

18. 川村、75ページ

19. 同上

20. 同上、85ページ

21. 近づいて、176ページ

22. 同上、262ページ

23.佐藤、71ページ

24. 川村、2-3ページ

25. 川村、201ページ

26.シカゴ・ディフェンダー、1924年5月31日

27.シカゴ・ディフェンダー、 1924年6月21日

28. ロビンソン、グレッグ『偉大なる未知』 、291ページ

© 2021 Takako Day

アフリカ系アメリカ人 川村忠雄 シカゴ大学
このシリーズについて

このシリーズは、第二次世界大戦前と戦中のシカゴと中西部の日本人と日系アメリカ人の物語を描いています。西海岸の日本人の物語とはまったく異なります。戦争勃発直後の日本人の人口とFBIに逮捕された日本人の数はどちらも少なかったものの(それぞれ500人以下と20人以下)、米国政府は、1930年代からアフリカ系アメリカ人と日常的に接触していたシカゴの日本人による日本政府のスパイ活動に警戒の目を向けていました。このシリーズは、スパイ容疑で逮捕されたシカゴと中西部の日本人4人の人生に焦点を当てています。

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執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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