ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/9/11/8270/

 第39回 すごい人だった、伯父助次

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹、岡本みつゑさん一家にあてて膨大な数の手紙を送り続けた。これまでその手紙を紹介しながら助次の半生をたどってみたが、この手紙は、みつゑさんの二女で助次の姪にあたる三濱明子さんが長年保管してきたものだった。京都府木津川市に住む明子さんに、手紙をあらためて読み直してもらい、伯父の助次についてきいてみた。

* * * * *

〈一度も会ったことなく手紙だけで〉

ーー 戦後1950年代から、ずいぶんたくさんの手紙が助次さんから来たようですが、よくこれだけ捨てずに保管しておきましたね。

助次について語る、姪の三濱明子さん(2012年12月)

三濱: 私ひとりだけに来たものではなく、最初は母のところにずっと来ていて、その後姉と私のところにもきたものがたくさんあります。母も姉ももういなくなったので、それらをまとめて私がとっておきました。

伯父(助次)からの手紙をあらためて読んでみると、自分の手元に来た私たちからの手紙を返送すると書いてありましたが、そうしたことはありませんでした。亡くなったあとにどうしたんでしょうね。

ーー そうですね。助次さんが岡本家に戻していれば、両者の間でのやりとりがもう少しはっきりしたでしょう。ところで、30年ほどの間、これだけたくさんのやりとりをしていますが、岡本家の人たちと助次さんは一度も実際に会ったことはないんですね。さらに助次さんはみつゑさんの夫として、また明子さんらの父親代わりとして振舞っていたこともありますね。

三濱: そうなんです。一時、伯父が姉を養女にほしいといったこともあり、それを伝えに来てくれた人はいましたが、伯父と実際会ったことはありません。伯父とは、電話で話したこともありませんでした。伯父が亡くなってからは兄は二回、姉は一回フロリダに行きました。


〈アメリカへの感謝、すごい人〉

ーー 手紙から助次さんの生き方や生活の様子があらためてわかったと思うのですが、どんなことが印象に残っていますか。

残された手紙で、もっとも古い1950年の助次からの手紙

三濱: 母に来た手紙のなかのことですが、私の知らないこともいっぱいありました。「ご依頼のお金を送ります」とかあって、あー、ずいぶんお世話になったんだなってあらためて思いました。また、何回も死ぬような目に遭ったり、病気をしたりけがをしたりして、それでもよく生き延びてきたものですね。大和コロニーのなかでは、最後まで現地に残って、「こうなったのもアメリカのおかげだ」と、感謝の気持ちを表していて、すごい人だなとも思いました。

また、アメリカに行った理由が初恋の人と結婚できなくてということでしたが、その人のことをずっと思い続けてきたということがわかりました。いまの時代では考えられないことですね。

ーー アメリカで成功したら、日本に帰ってその初恋の人に認めてもらおうという気持もあったのではないでしょうか。でも、とうとう一度も日本に帰ってきませんでした。帰る、帰ると何度もいいながら、帰国は実現しませんでした。どうしてでしょうか。

三濱: なんででしょうか。一度日本に帰ったら、もう戻れないと思ったからではないでしょうか。


〈気難しく、はっきりした人柄〉

ーー 手紙をみると、ときどき日本の風習や三濱さんたちの生活の仕方や考えなどに対して怒りを表わしているところがたびたびありましたが、助次さんはどんな性格だったのでしょうか。

三濱: とてもきちっとしたところがあって、私の学費を援助してくれた時も、そのお金の使いみちについて報告するように言われたので、私も家計簿をつけて送りました。気難しい面があってこちらが良かれと思って言っても、気に障るとすぐに怒ることがありました。でも、しばらくすると元に戻ってしまうこともしばしばです。

ーー そういうところは、手紙だけのやりとりですが、家族同様の間柄ですね。

三濱: 家族ってそういうもんじゃないですか。けんかしてもすぐに元に戻ってしまう。それと、伯父の率直なものの言い方は、アメリカナイズされているのかなと思いました。


〈誰が彼の墓を守るのか〉

ーー 助次さんのお墓は、フロリダの「森上ミュージアムと日本庭園」の敷地の一角にありますが、このほか郷里の京都府宮津の森上家の墓にもその名が刻まれています。しかし、それとは別に、明子さんら岡本家で滋賀県にお墓をつくられましたね。

三濱: 手紙では、生前伯父は、墓はこちらで決めてあると、アメリカですでに用意してあるように書いてありましたが、どうやらそうではなかったようです。用意する前に亡くなったのか。お世話になった伯父のために、遺灰の一部を持ち帰りその墓に収めました。しかし、この先お墓を守っていけるのかどうか。私ももう80歳ですから、私の子供の世代はいいとしてそのあとどうなるか、先のことを考えると少し心配です。 

滋賀県内の霊園に建てられた森上助次の墓

(一部敬称略)

 

© 2020 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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