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戦前のスポーツ大好き二世たちの青春: 「今」を映した宮西正三のカメラアイ — その1

1930年、バンクーバー朝日軍はターミナルリーグで2度目の優勝を遂げた。以後、朝日軍の快進撃は続き、1938年から3度続けてバラードリーグでの優勝をさらった。だが、そこで真珠湾攻撃が起きて万事が休した。そして、選手たちは道路キャンプ、ゴーストタウン収容所、あるいは戦争捕虜収容所へと去っていった。当時の日系社会は野球熱にうなされていた。ふりかえると、それは世界恐慌で始まり戦争に飲み込まれていった10年だった。日系漁民は漁労免許を取り上げられ、日本帝国軍が中国の奥深くへ侵攻するに従い、北米での人種差別は露骨になっていった。日系社会は生活の様々な局面で抑圧されていった。だが、そんな中でも二世たちは勉学に励み、可能な限りスポーツを楽しみ青春を謳歌しようとしていた。

1931年、カナダ政府は第一次世界大戦に従軍した日系退役軍人の投票権を認定した。ブリティッシュ・コロンビア大学在学中の日系人たちは「日系学生クラブ」を設立し、自分たちが直面する人種差別的体制を議論し、投票権獲得の方途を探り始めた。それは彼らが民主主義とフェアプレーを信じて育ったからでもある。

晩年の宮西正三さん

その一人がここに紹介する故・宮西正三(みやにし・しょうぞう、1912年2月〜 2006年7月)さんだ。彼が90歳代はじめの頃、よく日系ボイスの事務所に来ては、戦前のスポーツ大好き二世たちの話を楽しんで帰っていった。彼にとっては日本語で気楽におしゃべりする息抜きの時間だったのだろうが、日系コミュニティ新聞の編集者にとっては、戦前の話を聴けるまたとない貴重な日系史の授業だった。宮西正三さんは、カナダ生まれで日本で学校教育を受けた、いわゆる「帰加二世」だった(注:同様に、米国生まれで日本育ちの日系人は「帰米二世」と呼ばれる)。

バンクーバーのトライアンフ通り2024番地で生まれ、6歳の時に教育のために日本に送られ、滋賀県米原町磯小学校で3年生頃まで過ごした。その後、大津市膳所の料亭「金波楼」を経営する叔父の家庭で高等小学校を出るまで育てられた。「坊ちゃん扱いされていました」という。確かに育ちのよさを感じさせる人柄だった。スポーツ万能でいつも笑みを絶やさず、自分で撮った写真を見せながら話はえんえんと続いた。そこで、あらためてテープを回してインタビューすることにした。

以下は『日系ボイス』(日本語頁)2001年7/8月合併号に最初に載せた筆者の記事だが、2018年、故人となった宮西さんの13回忌を記念して、彼の4人の子供の末っ子ロンと、日系ボイス紙元編集者である筆者が加筆し、更に次女シャーリーからのコメントなどもいただいて英訳し改訂版としたものである。

スタルヒン投手

1935年5月、ビクトール・スタルヒン投手

一枚の不思議な写真がある。頭の先がフレームからはみ出し、うつむき加減に歩くダブルスーツを着た白人紳士の写真だ。突然現れたので慌ててシャッターを切ったというような一枚だ。この背の高い紳士が、ロシアから難民として渡ってきた、当時19歳の日本プロ球界のルーキー、スタルヒン投手(1916年〜1957年)だ。まことに貴重な写真である。

1935年5月18日、北米巡業試合でやってきた全日本軍(「大日本東京野球倶楽部」)を迎えうった地元朝日軍は、健闘むなしく2試合とも全日本軍に勝利を献上した。宮西さんはコン・ジョーンズ球場(現・コリスターパーク)に現れたスタルヒンを目の前にして、急いでカメラのシャッターを切ったと言う。「スターフィンはね、雲をつくような大男でしたよ」と言う。このルーキーは制球力はともかく球速は150キロは出ていたといわれる。

スタルヒンは白系ロシア人の一人息子だった。「白系ロシア人」とは1917年のロシア革命時に日本に逃れて来たツァー皇帝派を指している。各地をさまよった一家は1925年、やっと北海道旭川市に落ち着くことができた。そして、彼は野球に才能を発揮し、大きな体躯から投げ下ろす豪速球が注目された。まだ17歳の旭川中学の生徒にして、すでに日本では有数の速球投手であることを証明していた。メディアが報じて彼を有名にすると、発足間もないプロ球団が接近し、無理やり学校を中退させて入団させた。NHK制作の記録番組「野球がパスポートだったー伝説の300勝投手ー」によると、全日本チーム・オーナーの正力松太郎(元警察署所長で読売新聞社社主)がスタルヒンが無国籍者であることを察知し、従わなければ一家をソ連に強制送還させるぞと脅したという。

ロシア革命後、200 万ものロシア人が政治的理由で国外に逃亡したという。難民として日本に住む以外に道のなかったビクトール・スタルヒンは努めて日本社会に溶け込もうとした。だが、受け入れられることはなかったようだ。第二次大戦では兵役は免除されたものの、他の外国人たち同様に軽井沢に軟禁された。彼は落ち込み、酒に溺れたという。戦後、再びユニフォームを着ることになったスタルヒンだが、もはやかつての速球投手ではなかった。じきに41歳で引退したが、旭川中学の同窓会に出かける途中に自分で運転するスポーツカーごと列車に突っ込んで死亡したのである。彼は生涯にわたりどこにも居場所もなく、民族アイデンティティも持たない「アウトサイダー」だった。今日、彼の「故郷」の旭川では、かつて彼の活躍した市営球場を「スタルヒン球場」という愛称で呼んでいるという。戦前の二世たちは、スタルヒンが抱えていた不安や孤独を、ある程度共有できるのではないかと思う。


ジミー堀尾選手

1935年5月、ジミー・堀尾文人選手

戦前の日系人選手にとっては米大リーグでプレーすることなど不可能な夢だった。人種差別の壁がそびえ立っていたからだ。1947年になってやっと黒人選手・ジャッキー・ロビンソン(1919〜1972)が先駆者として現れた。ハワイアン二世ジミー・堀尾文人(ほりお・ふみと、1907〜1949)の野球人生も差別との闘いだったと言えよう。彼も果敢にカリフォルニア州のセミプロリーグで、観衆からのヘイト野次に耐えながらプレーし続けた。この時、1934年に発足した日本のプロ野球界が彼に注目し日本に招き入れたのだ。

宮西さんの写真に写った堀尾選手は、1935年に全日本軍の一員としてバンクーバーに来た時のものだ。この遠征の後、彼は読売巨人軍の中堅手としてプレーした。だが、じきに戦争の気配に感づいたようだ。真珠湾攻撃の前に急いでハワイに帰国した。もし日本に長居していたら、兵役に服すことになったかもしれない。

戦前の二世たちにとって、野球は別として、他にどんなスポーツが人気があったのだろう。宮西正三さんは「ラグビーはとても人気がありました。また、スキーや水泳のクラブもあったんですよ」と意外なことを教えてくれた。

ここに掲載したラグビーの試合の写真は、1930年、日本から選抜チームが来加した時のもので、9月24日に、BCベアーズとスタンレーパークのブロックトン・オーバル・グランドで対戦し3-3で引き分けている。残り6試合は日本チームが全勝した。体格のハンディを考えると、技術の高さは野球の朝日軍の比ではなかったはずだ。

1930年9月、ラグビー日本選抜チームとカナダ人チーム・BCベアーズの試合


フジ・スキークラブ

二世たちは1930年に水泳クラブ、1933年にはフジ・スキークラブを発足させた。東部カナダ・スキー連盟にも加盟が許された。宮西さんは「二世はグラウス山に自前の山小屋を持っていたのです。夏の間、山登りを楽しんでいた連中が冬も出かけて貸しスキーで滑るようになり、一回ごと借りていると高くつくので、そのうちに自分たちのクラブハウスを持ってはどうかということになりました。発起人5、6人で会員を募りすぐに30人ほどになりました。会長は小沢という日本町のあるパウルス通りで靴屋を経営していた人です。私は幹事として走り回りました」。

フジ・スキー・クラブの面々・右から3番目が宮西正三

BC政府の所有地でノースバンクーバーが管理している土地があり、その土地を借りることにした。大工仕事は庭師をしていた島根県出身者で聖公会の信者たち5、6人がしたという。「近くの白人のキャビンに寝泊まりさせてもらって、11月に1ヶ月ほどで完成させました。休日には僕らも丸太を運んだりヘルプに行きました」と語る。

1930年代初期の世界恐慌下で、多くが製材所や工場に勤める二世たちにスポーツに費やす時間的、金銭的余裕があったのは予想外だ。スポーツを通じて、それは貴重な若者たちの社交場となっていたのだろう。

その山小屋の前で撮った記念写真は賑やかで晴れやかだ。ここで、もう一枚に写る山小屋の入り口に立つ白人女性に注目した。宮西さんによると「テニングさんの娘のように見える」という。

フジ・スキークラブのロッジ: 右入り口に立つのは「テニングさんの娘のようだ」(宮西)という。

その2 >>

 

* この日本語記事の初版は『日系ボイス』日本語面・1991年7/8月合併号に掲載された。2019年、宮西家の末っ子ロンの協力により筆者・田中が初版記事に加筆して『JCCAブルテン』日本語面に4回シリーズで掲載された。今回は宮西家次女シャーリーのコメントや新たに発見された写真も加えて全面的に書き直した。写真は宮西家提供による。

 

© 2020 Yusuke Tanaka

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執筆者について

札幌出身。早稲田大学第一文学社会学科卒業。1986年カナダ移住。フリーランス・ライター。グレーター・バンクーバー日系カナダ市民協会ブルテン誌、月刊ふれーざー誌に2012年以来コラム執筆中。元日系ボイス紙日本語編集者(1989-2012)。1994年以来トロントで「語りの会」主宰。立命館大学、フェリス女学院大学はじめ日本の諸大学で日系カナダ史の特別講師。1993年、マリカ・オマツ著「ほろ苦い勝利」(現代書館刊)により第4回カナダ首相翻訳文学賞受賞。

(2020年3月 更新)

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