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サカモト-ササノ・コレクション:家族の思い出の品々に新しい意味をもたらす

全米日系人博物館に寄贈した物を見直すスコット・ヨシダさん

全米日系人博物館(JANM)のコレクション管理&利用部門のスタッフである私と同僚たちは、毎日のように当館の収蔵品についてさまざまな「再発見」をしています。「発見」ではなく再発見と呼ぶのは、当館の収蔵コレクションに収められた「物」にまつわる物語を知るのは私たちが初めてではないからです。コレクション管理&利用部門の仕事が、博物館の中でも最も恵まれたものだと思うのはこうした再発見の連続があるおかげです。また私たちの仕事は大きな責任が伴うものでもあります。コレクション管理&利用部門には全米日系人博物館収蔵のコレクションを保存し、後世に残していくという重要な役割があるのです。

当館のコレクションの規模や、今現在も積極的に収蔵品を増やしていることを考えると、物や写真、書類、美術作品、ちらしや手紙といった収蔵品のカタログ化およびデジタル化は遅れを取っているのが現状です。当館のみならずあらゆる博物館・美術館が同様の課題に取り組んでおり、当館もまた当館のコレクションがより利用しやすくなるよう、収蔵品のカタログ化やデジタル化に力を注いでいます。これらが実現すれば、当館会員や一般の利用者の方々が独自にそれぞれの再発見ができるようになるのです。

こうした再発見のプロセスは、多くの場合、資料保存箱を開け素晴らしい中身を選り分けるところから始まります。ある日、私が開けた箱には、第二次世界大戦中の強制収容に関する歴史的な事物をまとめたものが入っていました。全米日系人博物館の常設展示でも収蔵コレクションでも第二次世界大戦中の日系アメリカ人の経験が重要なものであることを考えると、こうした物に出会うのは私たちにとっては珍しいことではありません。この「サカモト-ササノ・コレクション」はもちろんユニークな寄せ集めではあるものの、一見するとありふれた物のようにも見えました。しかしよくよく目を凝らしてみると、それらの物には二世代にわたるササノ家の女性の経験が反映されていたのです。当館を含めた大半の博物館では、女性たちの経験を反映した収蔵品があまりにも少ないのが現状であり、こうしたものに出会うのはどちらかと言えば稀有な出来事なのです。

1936年、ヨセミテにて。チヨコ・サカモト(中央左)、タエ(サカモト)ササノ(中央右側)、タエの2人の娘であるフランシス(右端)、ルイーズ(左端)

ひとつひとつの物を調べていくうちに、日系一世の母と2人の二世の娘たちの第二次世界大戦中から戦後までの経験が浮かび上がり、サカモト-ササノ・コレクションが持つ意義がゆるぎないものとなりました。このコレクションはササノ家の女性たち――女性家長のタエとその二人の娘たち、フランシスとルイーズ――の物語を伝えるものです。第二次大戦から戦後を形作った彼女たちの成功や苦難の物語を生き生きと語るものであるのです。

アマチ収容所で中学・高校時代を過ごした末娘のルイーズのサイン帳からは、友人たちの目に映った十代の彼女の人となりが読み取れます。アマチでルイーズが宿題に使っていたノートからは、収容者たちがアメリカの強制収容所に拘束されながらも「日常」の感覚を保とうと努めていたことがうかがえます。アマチ収容所の高校の卒業書は、フランシスがコネチカット州ハートフォードのコミュニティーカレッジ(短期大学)への入学許可を得るのに役立ちました。サンタアニタやアマチ収容所で出されたさまざまなハンドブック、卒業アルバム、新聞は、強制収容所での生活がどのようなものだったのかを再構築するのを助けてくれます。

タエ・ササノの市民権テスト用の学習教材や権利章典のコピー、戦後の米国帰化証明書は、彼女の第二の祖国に対する忠誠心と愛を映し出しています。第二次世界大戦中には不当に拘束されたにもかかわらず、1952年に日本人にも帰化が認められると、タエはアメリカ帰化市民となりました。

サカモト-ササノ・コレクションは4年前に当館に寄贈されたものの、収蔵プロセスが進められていなかったため、今でも当館の収蔵コレクションに寄贈する意思があるかどうか寄贈者に再度確認したいと考えました。すぐに寄贈者のスコット・ヨシダに電話をかけ、このコレクションは彼の家族である3人の女性たちの経験を伝えてくれる貴重なものであり、ぜひ当館に収蔵したいと伝えました。スコットは今でも当館に寄贈する意思があると話し、この歴史的な品々が浮かび上がらせる3人の女性たち、彼の母と伯母、祖母の写真を見たいですかと尋ねました。

サンタマリアの自宅で撮影されたササノ家の家族写真。1932年。左からフランシス、ヨシキチ、アレン、ルイーズ、タエ。

スコットが全米日系人博物館に訪ねてくれる時に数枚の家族写真を見せてもらえるだろうかと私は考えていたのです。ところが彼が持ってきてくれたのは、何百枚もの写真や文書、手紙、その他の物などいろんなものが入ったいくつもの箱でした。それらのおかげでさまざまな物が一つになり、サカモト家の女性たちの豊かな物語の全体像が見えてきたのです。スコットは箱の中から、小さなアクセサリーや身の回りのものが個別に収められたジップロックに加えて、写真や歴史的文書、手紙などがそれぞれプラスチックのスリーブに収められたバインダーを取り出しました。それらの全ての物に、それが何であり誰のものでいつ頃のものか、きちんとラベルが貼られていたのです。

それらを見せてくれながら、スコットは祖母タエ、母ルイーズ、伯母フランシスそれぞれにまつわる、魅力的でおかしく、時に胸が張りさけそうで、そして勇気を与えてくれる物語を数多く話してくれたのです。さらに一家のもう一人の素晴らしい女性、大叔母のチヨコ(祖母タエの妹)についても教えてくれました。

タエとチヨコ姉妹は同世代でしたが、アメリカ市民権の有無のために2人の人生経験は大きく異なっていました。妹と同じようにアメリカ人として育ったものの、タエは日本生まれであったため、両親と同じく「帰化不能外国人」と見なされました。カリフォルニア州ナパの学校で撮影されたタエのクラス写真は、1910年代、1920年代、この農業地域にはさまざまな民族が暮らしていたことを示しています。ロサンゼルスで応用美術や科学に特化した高校を卒業したタエの卒業写真からは、彼女がアメリカの12年の教育制度を修了したことが分かります。しかしながら彼女のアメリカ生まれの妹、チヨコはアメリカ市民としてより多くの機会に恵まれました。チヨコの法科大学院修了記念リングは、アジア系女性として初めてカリフォルニア州司法試験に合格し、その後公民権専門の弁護士としてのキャリアを築いた彼女の堂々たる偉業を象徴しています。

やがてタエはヨシキチ・ササノと結婚します。ヨシキチは青年期の大半を生まれ故郷の日本で過ごした日本人移民でした。そして二人はフランシス、ルイーズ、アレンの3人の子供に恵まれました。カリフォルニア州サンタマリアにおけるササノ家の戦前の生活の記録が、サカモト-ササノ・コレクションの写真、資料、生活や文化に関わる品々から浮かび上がります。 

真珠湾攻撃が起きた後、西海岸のほかの多くの日系アメリカ人家庭同様、ササノ家の暮らしは一変してしまいました。ヨシキチはFBIに連行され、ロサンゼルスのツナ・キャニオン拘置所に拘束されました。夫が不在となり、西海岸からの立ち退きが差し迫りつつあるとのニュースを聞いて、タエは当時15歳、13歳、9歳だった3人の子供たちと共にロサンゼルスのチヨコのところに移ります。それは、サンタアニタ集合センターへの移送の際に家族が離れ離れにならないようにするための策でした。

トオル・タカハシとチヨコ・サカモトの写真が収められたローズゴールドのハート型ロケット付きブレスレット

このコレクションには、ルイーズがロサンゼルスからサンタアニタ、グラナダ(アマチ)まで持って行った大切な持ち物が含まれています。レシピを手書きした小さなメモ帳、節目となる出来事があった時に記念のチャームを生涯追加し続けたブレスレット、「ベイビー・ディンプルズ」*(訳注:寝かせると目を閉じる、えくぼのある赤ちゃん人形)の人形です。他にも一家が暮らしていたバラックを描いた絵、ルイーズの友人たちが住んでいた場所を書き込んだサンタアニタ収容所内の1区画を記した手描きの地図、社交イベントのお知らせなど、サンタアニタ集合センターでの日々に関係する品々もありました。

1943年にルイーズが書いたアマチ収容所内の1区画の地図。友人たちが住んでいた場所やその他の重要な目印が書き込まれている。

サカモト家とササノ家の人々は、後にコロラド州アマチ収容所に移送され、そこでヨシキチと再会します。フランシスとルイーズは、アマチ収容所の中学校と高校では学業優秀者でした。チヨコはアマチ収容所にいる間、法律顧問として収容者からの法律相談を受けたり、法的な助言をしたりしていました。

ルイーズのスクラップブックに保管されていたアマチ収容所での社交イベントのお知らせ

宿題やダンスの招待状、斬新な素材で作った工作、社交クラブ活動の宣伝ちらし、落書き、友人たちからのメッセージなど、ルイーズとフランシスが念入りに集めた何百もの文書や手紙、ちらしからアマチでの日常生活が読み取れます。

コレクションの中で最も驚かされたのは、フランシスがアマチ高校で書いた小論文でした。そこには人種的偏見の結果としての強制収容について、彼女の考えがまとめられていました。フランシスは、監視塔を見ると憎しみが湧くと綴っています。小論文を通して、彼女は心の中に抱えていた驚きを表現しています。「私は見張られる必要がある犯罪者ではないから逃げはしない。私は裏切り者でもないし、監視が必要な敵でもない。私は自分が有罪になる前に裁判を受ける権利を持つ、自由な思想が許されるアメリカ人だと思っていた」。

しかし小論文の最後では、あえて前向きに物事を見るように努めています。「私はいつになれば過去を忘れ、未来のために思考できるようになるだろうか…。このような状況は続かないだろう。いつか戦争は終わる、そして二度と戦争は起こらないかもしれない。私たちに、私たち全員にチャンスはある。アメリカの運命は私たちにもかかっている。人種的格差のない世界、あるいはアメリカはあり得るのだろうかと私は思う」。有刺鉄線に囲まれた収容所に拘束されながら、フランシスがこれほど若くしてこのような視点を持っていたことは驚くべきことです。

アマチ高校でフランシス・ササノが書いた小論文。強制収容についての考えが綴られている。

当館の収蔵コレクションにおける、強制収容所における思春期の若者たちの経験、特に若い女性の経験の記録は十分なものではありません。ルイーズとフランシスが取っておいたちらしや手紙、記念品から彼女たちの日々の経験や心の中の思いを覗くことができます。こうした品々は彼女たちが典型的なアメリカのティーンエイジャーであったと共に、人種的偏見や不当な差別についての鋭い考えを持っていた事実を示しています。この人種的偏見と差別という二つが彼女たちが西海岸の自宅から追い出され、収容されるに至った二つの大きな要因だったのです。

サカモト-ササノ・コレクションは、タエ、チヨコ、フランシス、ルイーズの戦後からその生涯の最期にいたるさまざまな経験を記録しています。そこからは彼女たちが出会った苦難とそれを乗り越えて手にした勝利が浮かび上がります。戦後、タエとヨシキチは離婚し、タエは自分自身と子供たちを食べさせていくための仕事を探すことになります。そして日中は家政婦として働き、夜は市民権試験のための勉強をしました。人生のほとんどをアメリカで暮らしていたタエは、一世の帰化が認められた後すぐの1954年についにアメリカ市民となりました。タエが購入できた家の資産税記録、市民権試験の教材、帰化証明書は、強制収容所を出た後も続いた苦労を伝えています。こうした記録は、家族でロサンゼルスに戻り、再び共に生活を立て直していくときに必要とされた途方もないレジリエンスや粘り強さの証しでもあるのです。

フランシスはコネチカット州のハートフォード短期大学を卒業後、ロサンゼルスの実家に戻り、南カリフォルニア大学(USC)に進学しました。1954年に社会学の学位を取得し、国連で働くためにニューヨーク市に移住。その後、タイムズ・ミラー・カンパニー(1884年〜2000年「ロサンゼルス・タイムス」を発行)やメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)、その他の映画産業のスタジオでマーケティングの仕事に就きました。フランシスのUSC卒業証書や名刺は彼女の華々しいキャリアを象徴するものですが、その萌芽はアマチ高校時代にすでに現れていたのです。

終戦直後は生活がままならないこともあり厳しい時代でしたが、ルイーズは諦めませんでした。1946年春、彼女はロサンゼルスのドーシー高校を卒業後、タイピストと簿記の仕事に就きました。そして結婚して息子のスコットをもうけます。その数年後に結婚が破綻すると、母と姉からの同居の提案を受け入れ、再び一緒に暮らし始めました。ルイーズの息子のスコットは、互いに支え合う女性たちに囲まれて育ったのです。

一家の女性たちはそれぞれの形で独立しており、同時に互いに支え合っていました。ルイーズとフランシスが外で働く一方で、タエは家のことを世話しました。2001年にフランシスは退職し、結腸がんに苦しむルイーズを看病しました。ルイーズが亡くなった後、フランシスは甥のスコットと彼の家族の近くに暮らすため、戦後に住んでいたロサンゼルスの家に引っ越しました。

スコットは、祖母や大叔母、伯母のことを私に語ってくれた時、彼女たちの歴史を彼自身にとってとても大切なものだと認識していました。しかし個人的な文脈のみならず、より広い文脈におけるその重要性や歴史的役割を強調すると、彼は非常に驚いたようでした。「再発見」が作用するのは、まさにこういう場面なのかもしれません。新しい光の下で彼女たちの歴史を見たことに触発され、スコットは自宅の物置に保管していた家族のアーカイブを見直しました。そしてさらなる思い出の品々を彼のコレクションに加えるうちに、スコットはこれらの品々をそれまでとは異なる視点から見るようになりました。そして、改めて全米日系人博物館の収蔵コレクションこそがこれらを寄贈するのにふさわしい場所だと判断してくれたのです。

これらの品々は、スコットの子どもたちやその次の世代だけでなく、日系女性の多様な経験に関心を寄せるより幅広い人々の目に触れることになるはずです。サカモト-ササノ・コレクションの物語は物の持つ力を示すものです。一見、普通の人々の、その実たぐいまれなる物語を伝える力が物にはあるのです。そしてこのコレクションは、コレクション管理&利用部門の最もやりがいを感じさせてくれる一面を体現しています。サカモト-ササノ・コレクションをはじめとする多くの家族のコレクションの管理者として、彼ら彼女たちの物語が今後も確実に生き続け、その時代時代に意味のあるものであり続けられるよう、私たちコレクション管理&利用部門スタッフは、全米日系人博物館における自身の仕事の重要性を認識しています。 

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スコット・ヨシダさんのJANM訪問映像をご覧ください。家族の思い出の品々にまつわる話をしながら、全米日系人博物館コレクション管理&利用部門スタッフの「再発見」によって、いかに彼が新たな光の下でそれらの物を見るようになったかを語っています。

現在、全米日系人博物館で行っている日系人の経験を記録・共有する活動をご支援ください。: janm.org/givenow

 

© 2019 Kristen Hayashi

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