ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/7/27/uwajimaya-16/

第16回 万博に出店し成功。富士松逝く

終戦から5年後の1950年9月、日本とシアトルを結ぶ太平洋航路が再開し、翌年にはサンフランシスコ平和条約(対日講和条約)が締結され、日本は独立を回復した。日米間の交易、交流も進み、60年には、日米修好通商100周年を記念した行事が、日米で華々しく行われた。アメリカでの記念祭には日本から皇太子も出席し、シアトルにも訪れた。

シアトル市内のメイン・ストリートの宇和島屋には、日本からシアトルに入港する船の船員たちやアメリカの軍人と結婚して渡米してきた日本人女性も頻繁にやってきて顧客となっていった。

こうして日本人、日系人のお客を相手に、宇和島屋はにぎわいをみせていた。しかし、それは富士松、貞子夫妻をはじめモリグチ家の家族が一丸となって働きつづけた成果であった。

長男のケンゾウは、56年から58年まで陸軍に入隊していた。また、二男のトミオも一時州兵の任についていた。しかし、ともに地元の大学に進学しながらも、つねに店の仕事に関わり父母を手助けしていた。家族に加えてまた、何人もの従業員が働くようになった。

貞子は、店で働く者のすべての昼食を作っていた。スパゲティーはそのなかの定番で人気があった。夕食はトミオや姉妹がつくり、家族やそのときに店にいた働き手などが一緒にテーブルを囲んだ。ご飯を炊いておかずにはウインナーやソーセージをしょうゆや塩で味付けしたものをみんなよく食べたという。忙しくも家族的な経営のなかで商売は順調に推移していった。


出店にかける意気込み

しかし、このころ主の富士松が健康を害する。ヘビースモーカーだった彼は50代後半にして肺がんの疑いから、片方の肺を摘出した。その後、日本へ行くなど元気なところを見せていたが、徐々に体は衰えていき、62年8月帰らぬ人となった。直接の原因は5年前の手術が原因だったようだ。

富士松は、家族には口数が決して多くはない、昔の日本人の父親気質だったが、生前にはっきりと言っていたことがあった。それが「万博に店を出さないといけない」というものだった。

シアトルでは、1962年の4月から半年間かけて、万国博覧会(Seattle World’s Fair)が開かれることになっていた。当時、万博は特別なイベントとして注目度が高かったこともあり、ここに関わることが商売として意義あることだと、富士松は見ていたようだ。

「未来と科学」をテーマにしたこのシアトル万博には、24ヵ国と企業などが参加、74エーカーの敷地の中に、「21世紀はこうなるだろう」という予想をもとに、産業、芸術、エンターテイメントなどについて、展示や催しが行われることになった。今はシアトルのシンボルにもなっている、スペース・ニードルやモノレールもこの万博にあわせて建設が予定された。

また、敷地内には、各国の文化や物産を紹介・販売するスペースもできることになっていて、そのなかに“日本館”も含まれた。この一角に富士松は、宇和島屋を出店させたいと強く願っていた。

わずか20坪ほどのスペースだが、出店が実現すると店は多くの来客でにぎわった。期間中の半年間で1000万人近い人が訪れるという大盛況のなかで、日本館も人気だったようで、宇和島屋の商品もよく売れた。

万博に出店した宇和島屋と森口富士松(亡くなる1,2ヵ月前に撮影、宇和島屋提供)  


父が考えていたことが実った

富士松がなくなる前後のことであり、店は家族がなんとかやりくりした。トミオは、地元の高校を出たのち、ワシントン大学で学んだ。この間もずっと店を手伝い、61年に卒業するとボーイング社に就職した。比較的フレキシブルな仕事だったこともあり、さらに仕事の合間を見ては手伝いつづけた。二女のヒサコも、兄と同様ワシントン大学に進学していた。万博の時はまだ学生だったが、この時はほぼ中心になって週末や夏休みや授業のあとで、万博内の店を切り盛りした。

メインストリートの宇和島屋のあるビルの上階はホテルになっていたが、よくそこにいたフジノという男性と毎日会場に通っていた。また友人たちにも手伝ってもらった。店内には、日本のおもちゃや土産物やせんべいなどお菓子などが置いてあり、そのなかには「ともえあめ」があったのをヒサコは覚えている。このほか、ソフトドリンクやたばこなど通常の商品も販売していた。

「女の子の友達と一緒に店をやっていたから、とっても楽しかった」と、ヒサコはのちに話している。

富士松は、このときのためにいろいろな商品を売り出すことを考えていたようで、せんべいなど当時としては人気商品をここでも並べていた。そのなかで、特に目新しいものとして電気炊飯器があった。当時、ただ義務として必死に店を手伝っていたトミオだが、後になって振り返ると、あまり表に考えを出さなかった父富士松は商売についていろいろ思案していたことがわかった。

「父は、さまざまな商品の見本市や展示会を運営している人とつながりを持っていて、ととくに日本人とのつながりがあって、そういう関係が続いていたことがよかったんだと思う」と、トミオは言う。

(敬称略)

※一部、Densho Digital Archives 参考

 

© 2018 Ryusuke Kawai

アメリカ シアトル ワシントン 1960年代 宇和島屋(食料品店) モリグチ家 家族
このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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