ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/6/8/uwajimaya-13/

第13回 開戦、そして収容所へ

三人の子供を抱えて、森口富士松、貞子夫妻が切り盛りする宇和島屋には、商店ということもあって、いつも日本人が出入りしていた。子供たちはこうした大人たちにかわいがられ、面倒をみてもらうなど、日本の田舎のコミュニティーのような暮らしの中で育っていった。人々が気軽に集まってきたのは、同じ日本人で困っている人がいると、親身になって世話した貞子の人柄に負うところが大きかった。

富士松が愛媛県の郷里から呼び寄せられた弟の才助は、まもなくして体を壊して亡くなってしまったが、商売はそれなりに繁盛し、人を雇うほどだった。また、長男のケンゾウは、現地の小学校に通い、それが終わると日本人学校で学んだ。幼かったが8歳のころから商品を並べたり接客をしたりして手伝っていた。

移住してきた日本人の間では、子供が生まれると、なかには一度日本の郷里の実家などに預けて育ててもらうことはよくあることだった。日本で教育を受けさせたいという理由や、アメリカでの仕事や商売上、世話をするのがむずかしいというのが理由だった。

森口家では、1941(昭和16)年に長女のスワコが愛媛県の郷里にある叔母の家に預けられることになった。貞子がひとりで、スワコと二歳になる三男のアキラを連れて、船で日本へと向かった。神戸の港に入り瀬戸内海を渡って愛媛に入り、そこからは予讃本線(現在の予讃線)に乗って終点の八幡浜駅まで行き、さらに海沿いに沿って下ってようやく森口家の実家のある川名津の集落に着いた。

富士松のすぐ下の妹で、結婚せずに家にいたカメのところへスワコを預けると、踵を返してアキラを連れてタコマへと戻ってきた。このあと日米開戦を迎えて戦争状態となると、当然日米間の行き来はできなくなり、スワコがアメリカの家族と合流するのは戦後になってからのことだった。

日米開戦から2ヵ月余りの1942年2月19日、アメリカのルーズベルト大統領が発令した大統領令によって、日本人を祖先とするものは敵性外国人(人種)とされ、太平洋沿岸などから立ち退きを命ぜられる。が、それが無理だとわかると、7つの州に分かれてつくられた強制収容所へ送られ、隔離されることになった。

タコマでは、5月17日の日曜日とその翌日、日本人町などで暮らす879人の日系アメリカ人が、ユニオンステーションから列車に載せられ鉄路、まずは北カリフォルニアのパインデール集合所(Pinedale Assembly Center)に向かった。そこでのうだるように暑い夏を過ごすと、今度はオレゴン州との境につくられたトゥーリレイク(Tule Lake)収容所へと再び連れていかれた。

トゥーリレイク収容所へ到着したばかりの収容者たち(写真:アメリカ国立公文書記録管理局)

富士松、貞子夫婦と長女スワコを除く3人の子供たちもこの流れのなかに身を置いた。当時日系人家族は、この先劣悪な環境の中に押し込められるにもかかわらず、どの家族も身だしなみを整えスーツケースを抱えて列車に乗り込んだ。いつもきちっとしたみなりの貞子をはじめ森口一家もおそらくその例に漏れることはなかっただろう。

パインデールからトゥーリレイクへと子供連れでの長い旅を経て、一家は収容所での暮らしをはじめた。当時、長男のケンゾウが8歳で、トミオは6歳、アキラは3歳。このあと、収容所にいるとき二女のヒサコ、四男のトシが、そして終戦直後に三女のトモコが生まれる。

当時のことをある程度覚えているのはケンゾウくらいだ。まだ、収容所に入れられた意味など分かるはずもなく、怒りなどもなかった。

「友だちといろんなゲームをしたり、スポーツを楽しんだりしていたよ」と、ケンゾウはいま思い出す。トミオも友だちと遊んだことは覚えているという。

「きらきら星」を歌う子供たち、トゥーリレイク収容所にて(写真:アメリカ国立公文書記録管理局)

富士松、貞子については、その後収容所を出てからも戦争中のことについて話をすることはほとんどなかった。富士松は元来が子供に対して厳格な雰囲気を保ち、気軽に話をするタイプではなかった。日ごろ子供たちにやさしい貞子も、ことのことについてはほとんど口にすることはなかった。

「なんか、不安だったんじゃないか。悪いことしたわけじゃないのに悪いことしてしまったと思っていたのかも知れない」と、トミオは、母の複雑な胸の内を推測する。ただ一度だけ、戦後ある程度年月がたったときに貞子が、収容所暮らしについてぽつりとこう漏らしたのをトミオは覚えている。

「監獄(刑務所)に入ったなら、(刑期があるから)いつになったら出られるかというのがわかっているけど、収容所はいつ出られるのか、1年なのか10年なのか、それがわからなかったのが不安だった」

(敬称略)

 

© 2018 Ryusuke Kawai

カリフォルニア州 強制収容所 家族 モリグチ家 ツールレイク強制収容所 アメリカ合衆国 宇和島屋(食料品店) 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所
このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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