ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/06/22/

第14回 戦後、シアトルで店を再開  

戦時中、10ヵ所に設けられた日系人収容所のなかで、カリフォルニアのトゥーリレイク(Tule Lake)収容所には、地理的な理由から当初収容された日系人に加えて、アメリカに対して忠誠心がないとされた人たちがその後集められた。一方で政府によって忠誠心があるとされたものは他の収容所に転出して行った。

忠誠、不忠誠の問題は、一個人としても割り切れない人は多く、また外部からそれを見極めるのは簡単ではなかった。モリグチ一家はタコマに住んでいたのでトゥーリレイクに入ることになったが、その後も他に移ることはなかった。

一家の柱である森口富士松が、どのような政治的な考えを持っていたか、どう政府から判断されたかははっきりしないが、この時点でアメリカに骨をうずめるつもりだったとは思えない。

富士松と貞子夫妻は、終戦時には12歳になる長男のケンゾーを頭に5人の子供をもち、さらに終戦直後に生まれたトモコを加えた6人を抱えての再出発となった。収容所を出てどこへ行くか。富士松が選んだのは、戦前に店を構えていたタコマではなく、シアトルだった。シアトルの方が将来的に大きなビジネスチャンスがあるという判断を下した。

トゥーリレイク収容所は終戦翌年の1946年3月に閉鎖されるが、戦争が終結する二ヵ月ほど前、富士松は家族を収容所において、ひとりシアトルの町へ出た。かつての日本町は日系人が収容所に送られてから、戦時の年月を経てすっかり様変わりしてしまった。しかし、それもつかの間、収容所などから日系人が徐々に戻り活気を取り戻してきた。当時の様子を「米國日系人百年史」(新日米新聞社、1961年)は、こう記している。人種的偏見を含む表現もあるがそのまま紹介する。

「戦時中黒人の巣窟になって居たメーン街と南六街角の商業区域は早くも日系人に依って買収奪還され、再び日系人商業区域となるに至った」

このなかの一つが富士松が日本に来て間もなくして働いた、魚卸商「メイン・フィッシュ・カンパニー」だった。戦前に木原一族が始めたその会社で、富士松は再び職を得るとまもなくして家族のために、旧日本町の中心から4キロほど東、イエスラー通りから少し入った12番街あたりに家を買った。戦前に蓄えていた資金を使ったと思われる。

「銀行に預けていたんだと思うが、はっきりしたことはよくわからない」と、二男のトミオは言う。

家は木造二階建てで地下室があった。100坪ほどの細長い敷地の中に建っていて寝室が三つあった。こうして家族を迎え入れる準備ができると収容所にいた妻子が新居に合流。その後家は、建て増しされ寝室が五つに増え、前後にも小さな別棟を建てられ、友人に貸したり貞子の弟が住んだりした。


店を借りて、家族で宇和島屋を

戦後シアトルで再開した、宇和島屋と森口富士松(Uwajimaya提供)

一方、富士松は一年ほどしてメインフィッシュ・カンパニーをやめ、再び「宇和島屋(Uwajimaya)」をはじめることになった。場所は日本町のあったメインストリートと五番街の角で、日本人が所有する5、6階建てのビルの一階の一角を借りての営業だった。よくあるように上階部分はホテルになっていた。富士松が借りる店舗部分は、戦時中はフィリピン人が食料品店を営んでいたが、戦後は景気が悪くなると判断した経営者が店を畳むことになり、そこに富士松が目をつけ借り受けた。

間口が3間ほど、建坪が30坪ほどの細長い空間で、一階には売り場と奥にキッチンを配し、地下室もあったのでここでカマボコを作るなど作業をした。また、二階部分も少しありそこを物置代わりに使った。

戦前のように食料品や雑貨を扱い、店が始まると毎日貞子も自宅から歩いて通い仕事をし、昼も夜も家族や使用人の食事の支度をした。子供たちも店の仕事を手伝った。中学生になったケンゾーをはじめ小学生のトミオもお客の相手をはじめさまざまな仕事をこなした。お米を買いに来る客に、5ポンドずつ小分けに袋詰めしたり、しょう油を小さな樽に詰め替えたり、また、床掃除をしたり、やることはいくらでもあった。店が閉まるのは6時か7時ごろだったという。

お客のほとんどは一世というより年配の二世の日系人で、たいていは日本語をしゃべっていた。みな近隣の人たちで、互いに家族同士が知り合いだったりして、店は日系人による小さなコミュニティーのようだった。当時のトミオには「とってもなごやかでいい雰囲気に包まれていた」と感じられた。

こうしたもともとからの客に加えて、アメリカ人と結婚して日本からやって来た“戦争花嫁”たちも店に立ち寄った。彼女たちは、店に日本の食べ物があるのを見てとても驚いた。

こうして日本人、日系人のお客をメインにしながら新生宇和島屋は、にぎわいをつづけ富士松以下、モリグチ家は多忙な日々を送ることになる。

(敬称略)

 

© 2018 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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