ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2017/6/2/visas-for-life/

日本人外交官杉原千畝 — 救った6千人の命

CMEグループ名誉会長レオ・メラメド氏の感謝

(写真提供:内閣広報室、外務省のホームページより)

金融先物取引商品、電子取引システムの創設者として有名なシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)グループのレオ・メラメド名誉会長は2014年、安倍晋三首相、福井県敦賀市長、早稲田大学を訪問した。ポーランドのユダヤ人家庭に生まれた彼は、日本人外交官、故杉原千畝の発行した「命のビザ」でナチスによるユダヤ人虐殺から逃れた一人であり、杉原の人道的決断に敬意を表し、ゆかりのある団体や自身の思い出の土地を訪れた。


命のビザ――杉原に託されたユダヤ人の運命

杉原千畝(写真はWikipedia.comより)

1900年、岐阜県の一般家庭に生まれた杉原は、早稲田高等師範部卒業後、外交官留学生試験に合格、公費で勉強を続けた。その後、外交官としての実績を積み1939年、日本国領事館創設のためリトアニア・カウナスに家族とともに渡った。その頃の欧州は戦火が激しさを増しており、ユダヤ人迫害もまた深刻化していた。

1940年7月18日早朝、領事館前は日本の通過ビザ発給を求めるユダヤ避難民で溢れかえっていた。杉原は、日本の外務省の意向に背きビザの発給を開始、領事館退去後はホテルで、出国当日も乗車ホームで渡航許可書を書き続けた。最後の一通は、車窓から手渡したという。これらが後に「命のビザ」と呼ばれるようになる。

1978年、杉原は当時を振り返り次のように語っている。

「(前略)はたして浅慮、無責任、がむしゃらの職業軍人グループの対ナチス強調に迎合することによって、(中略)旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか。苦慮、煩悶のあげく、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく職を賭して忠実にこれを実行しおえたと、今も確信している」

杉原千畝記念館
ホームページから)

メラメド氏は1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻開始を受け、家族とともにリトアニアに逃れた。その後、日本経由でヨーロッパから脱出するため、当時の在リトアニア日本領事館を訪れ「命のビザ」を受け取った。一家は、シベリア鉄道経由で日本の福井県敦賀港にたどり着き、その後米国に移住した。

杉原千畝が発行した通過ビザ(写真はWikipedia.comより)


杉原千畝のその後

第二次世界大戦後、日本に帰国した杉原は外務省から解雇される。命令に背き、独断でユダヤ人に日本通過ビザを発行したことが原因だった。杉原が日本外務省における名誉を回復したのは、没後5年が経った1991年のことだった。

杉原とユダヤの人々との再会は1968年。杉原に感謝を伝えるため、ある一人のユダヤ人が「命のビザ」を手に彼のもとを訪れたときだった。その翌年、同じく「命のビザ」によって救われたバルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を受け、85年にはイスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」を受賞した。翌年、神奈川県鎌倉で86年の生涯に幕を閉じた。

母校である早稲田大学は、杉原氏没後25年記念し「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」と刻まれた顕彰碑を設置。その除幕式には、イスラエル、リトアニア、ポーランド大使も出席している。

「命のビザ」から73年が経ち、再び敦賀の地を訪れたメラメド氏は、言葉にならない感動を覚えたと話し、立ち寄った小学校では、「誰もが社会を変えられる。命は貴重でかけがえのないもので、守り抜かなければならない。それをスギハラは証明してくれた」と子供達に語ったという。敦賀市には今も当時の史料を保管する「敦賀ムゼウム」という施設がある。当時、地元の人は避難民を温かく受け入れ、りんごを提供したり銭湯を解放したという。

「命のビザ」で救われたユダヤ避難民は約6千人。2005年の国連総会の決議により、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所が解放された1月27日は「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」と定められた。関連イベントの一環として、杉原を題材にした映画が国連ニューヨーク本部やイスラエルのエルサレムで上映されるなど、ファーストネームから「センポ」と呼ばれた杉原の名は、今も世界で広く知られている。

(一部敬称略)

 

* 本稿は、2017年2月9日の『北米報知』(Vol. 72, Issue 7)からの転載になります。

 

© 2017 Akari Terouchi / The North American Post

リトアニア ユダヤ人 命のビザ(書籍) 杉原千畝 第二次世界大戦
執筆者について

津田塾大学学芸学部国際関係学科所属。2016年3月より1年間のピジネス留学プログラムに参加し、シアトルの日系新聞「北米報知」の記者としてインターンを経験する。帰国後は大学に復学し、2019年3月卒業予定。

(2017年2月 更新)

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