小学校に入学した頃、私はリマのヘススマリア地区アルナルド・マルケス通り11区に祖父母と住み、のんびりした生活を送っていました。この地区の住人の多くは、先住民かアフリカ系黒人のルーツをもっていました1。しかし私の通っていた学校、時習寮サンタ・ベアトリス(Jishuryo Santa Beatriz)校の生徒のほとんどはチーノス(chinos2)だったので、とても驚いたことを覚えています。その衝撃に慣れるまではかなりの時間を要しました。当時、私の友達の多くは、オバー(祖母)があまり付き合わない方がいいと警告していた地元の「土人 “dojin3”」だったからです。
入学して間もなくのある日、休み時間に何かの会話の中で、私は「ジョーリ “jōri”」(サンダルのこと。ペルーの俗語では「サオヨナラス sayonaras」という)という言葉を使いました。すると、クラスメイトの一人が驚いたかのように黙り込んで私を見ました。そして私を指差して他の仲間に「おーい、みんな聞いたか?ジョーリって言ったよ」と。そうすると、もう一人が不思議そうに「ジョーリ?」。
そして、彼らは大笑いをしたのです。私にはなぜそんなにおかしいのか分かりませんでした。私を指したクラスメイトは、私をみて「ジョーリじゃないよ!それは草履 “zōri” というんだよ!」と間違いを訂正しました。
母方の祖父母によって育てられた私は、草履のことを「ジョーリ」というと確信していました。でも、そうではありませんでした。そのとき私は、山岳地帯シエーラ地方から首都リマにやってきた田舎者4が、容量の得ない回りくどい話し方や発音をして常にからかいの的になるのと同じような感覚を味わいました。
その後両親と住むようになりましたが、週末は祖父母の家に遊びにいっていました。その出来事があった土曜日、オバーに「ジョーリ」について聞きました。オバーは、私の質問に答える前にクラスメイトの名字を聞きました。教えると祖母は、「あ、そうか、彼らはナイチャー “naichā” (内地、本土のこと)だね!」と叫んだのです。そして、それがどう関係しているのかわからない私に、次のように説明してくれたのです。
「私たちは、ウチナーンチュ5で、沖縄出身なのよ。彼らは、ナイチャーで、東京の出身でしょう。だから、もっときれいな発音なの(他の言語を話すということではなく、もっと綺麗な美しい話し方をするというふうに強調したのです)。
そこではじめて、私は、ウチナーンチュ(沖縄出身)であることを知ったのです。
その時から、毎週末私は自慢気に徐々に上達する日本語の成果をオバーに見せるようになりました。でも、祖母は私のクラスメイトの名字によって誰が沖縄出身か、ナイチャーかを指摘してくれました。オバーが、その内地出身者に対して何らかの反感を持っていたかどうかは分かりません。内地の方々に対する恨みや愚痴を言ったことは一度もありません。しかしながら祖母は何かちょっと寂しそうで、私が内地化しつつあることを諦めていたようにもみえました。
学校には当然、日本各地からの子弟が在学していましたが、多くが沖縄県系でした。しかし、出身地について先生や仲間と話したことはありません。10年も一緒に勉強したので、かなり仲のいいグループを築くことができ、すばらしい友情も生まれました。親や祖父母の出身地とは、全く関係のないことでした。
その結果、長年自分自身がウチナーンチュであることをあまり意識したこともなく、重要視もしませんでした。1989年当時のアランガルシア政権のせい で、日本で就労することになったときでさえも同じでした。ただ、日本の本土が先祖の土地であると感じることができませんでした。礼儀正しくもなんとなく冷たい扱いで、工場でロボットのように働く労働者らの行動を、受け入れることができませんでした。近代的なインフラ整備に驚くこともなく、非常に寒い冬も、和食も、好きになることはできませんでした。しかし、数年後はじめて沖縄に行く機会がありました。暖かい気候と美しい白い砂浜、青緑色の海と落ち着いたブルーの空を感じることができたのです。そして、ペルーの日系社会で見かけるようなおじさんやおばさんたちの姿、同じ顔が街中にあったのです。みんなリラックスして、気取らず、家も湿気った外壁が剥がれ落ちているリマ郊外のカジャオ市にある風景に似ていました。ソーキそばやゴーヤチャンプルー、サーターアンダーギー(ドーナツのような揚げ菓子)を食べたときは、オバーがつくってくれていたのを懐かしく思い出しました。また、沖縄の音楽を聴き、そのリズムにのって踊ったときは、オジー(祖父)がワイワイと歌っていたときのことを思い描きました。みんながベロンベロンになるまで飲み、大きい口笛を吹きながら踊るのを見たとき、自分は「戻ってきた」と感じたのです。
そして、自分の顔よりもっと沖縄的なのがシーサーであると気づきました。自分の中にどれだけペルー人の部分、沖縄の部分があるのかは分かりません。でも、一つわかったのは日本人の要素がまったくないということです(自分でもそのことを喜んでいます)。
ときどき自分に問うのですが、もしペルーではなく沖縄に生まれていればどのような人生を歩んでいたのかです。久米島で、伯父や従兄弟たちと同様に砂糖キビを栽培していたのであろうか。それとも、内地に出稼ぎにきて鶴見辺りで電気配線の仕事をしていたのかも知れない。そして、土曜の夜はリトル沖縄で酔っ払っていたに違いありません。
注釈
1.「el que no tenía de inga, tenía de mandinga」という表現は、リマでは先住民や黒人との混血を指す。
2. chinosを直訳すると中国人という意味だが、ペルーでも大衆は東洋人一般を指すときに使う。
3. 一世は、その土地の人、すなわち現地人のことを「土人」と呼んでいた。
4. ”recién bajados” de la Sierra という表現は、山岳地帯から平地に降りてきたという意味である。その平地はリマ市内やリマ郊外に当たる。
5. 沖縄出身であること、またその子孫を指す(最近は、沖縄県系ともいう)。
第1次アランガルシア政権の経済危機のときのこと。