ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/7/6/grandmas-japanese-accent/

祖母の日本語訛りを捉える―ニッケイ語を見つけるための私の初めの一歩

私は、カリフォルニア州南東部の角に位置するインペリアル・バレーの農場に住んでいます。第二次世界大戦が始まる前、一世の祖父母がこの農場を立ち上げました。数千人の日系移民が不毛な砂漠地帯を肥沃な農地に変えた時代でした。私が子どもの頃は祖母もこの農場内にある、祖父母が1930年に建てた家に住んでいました。私は、まだトイレと風呂がその家になかった頃のことを覚えています。我々がベンジョと呼んでいたトイレとフロバは屋外にありました。私の両親は結婚後、あらゆる近代的設備が整った家を建てました。祖母の家に集まる時は、お客さん(特に都会の人)は風呂やトイレを使うのに私の家まで歩かなければなりませんでした。その家に浴室を作った後も、祖母は(屋外の)フロバで入浴すると言い張り、新品のバスタブもシャワーも、完全に無視しました。

インペリアル・バレーの開拓者の生活は殺風景で質素だった。右が祖父母の家で左が2軒のドウグベヤ(物置小屋)

私の祖母は、人並み外れた農婦でした。150センチにも届かない程の身長でしたが、ほとんどの男性より身体的に強靭で、よく働きました。祖母と私が円滑にコミュニケーションをとれることはほとんどありませんでしたが、私たちはとても仲良しでした。祖母はあまり英語が話せませんでしたし、私も日本語はほとんどできませんでした。戦前は7つの“ニホン・ガッコウ”(地元の二世がこう呼んでいました)がありましたが、私たちの時代にインペリアル・バレーで通うことのできる日本語学校はありませんでした。祖母は、英語と日本語を混ぜて私に話しかけました。そして祖母の日本語には、出身県の方言も混ざっていました。

ある記憶があります。それは確か、私が初めてニッケイ語の難しさに遭遇した時のことです。私は当時4、5歳で、今でも鮮明に覚えています。祖母は私に鶏舎から卵をとってほしかったのですが、私は期待に応えることができず、祖母は怒りました。私は言い付けを拒否したのではなく、単に祖母が何を言っているのか分からなかったのです。祖母は私の手を引いて鶏舎に連れて行き、何をしてほしいのか、私にやって見せました。その後私はうなだれて母のところに行き、こう尋ねました。

「日本語で“egg”って何て言うの?」

「“タマゴ”よ」

「別の言い方はある?」

「私が知る限りはないけど、どうして?」

「おばあちゃんはそんな風には言わなかった」

「おばあちゃんは何て?」

「イェーギース」

母は大笑いしました。日本語に関する質問があれば、私はいつも母に聞いていました。母は、自分では日本語を流暢に話せないと言っていましたが、少女時代の母はサンタモニカ学園の優等生でした。戦争が始まる直前、年に一度の“ハナシ・タイカイ(スピーチコンテスト)”で、当時まだ8歳くらいだった母は、自分よりずっと年上の他の生徒を破り、優勝しました。

サンタモニカ学園の生徒たち。左端に座っているのが母のキヨコ(旧姓サカモト)

この卵の話から、祖母が英語の発音に苦労していたことがわかります。英語には、日本語には存在しないたくさんの音があります。さらに、ほとんどの日本語の音節は子音で始まり、“ん”で終わる言葉以外は母音で終わります。元駐日大使で流暢な日本語を話した故エドウィン・O・ライシャワーが言うところの、英語の“興味深い発音間違い”が起きるのは、そのせいでした。ですから、例えば祖母がよく使う「Thank you very much(サンキューベリーマッチ:どうもありがとう)」には、日本語の音を当てて「サン・キュ・ベリ・マチ」と発音していました。

日本語にはLの発音がないので、祖母は一番近い日本語の巻き舌のRを使っていました。そして日本語の唯一のFの音は“フ”ですが、日本語のFの音は、英語のFのように上の歯で下唇を弾くのではなく、唇の間から空気を押し出します。そのため、“アルファルファ(ムラサキウマゴヤシ)”は、祖母が使う言葉の中でも長い間理解しづらいものの一つでした。祖母の言う“ア・ル・ハーハ”がアルファーファだと分かった時、私はとても驚きました。

祖母は訛っていたので、英語を話しているのかそれとも日本語かを見分ける必要がありました。この地域には、日本語の言葉や日系人文化の中で使われている言葉やフレーズがたくさんあります。その一つが、所有格の不変化詞の“~ノ”が、“ウチ”に付く、“ウチノ”です。

それは文字通り、“家の”または“家庭の”と訳すことのできる、家族や集団を指す言葉です。一般的に英語で“私の”、“私たちの”と言うように、家族や家族経営、会社、または結束の強い集団がウチノという言葉を使います。祖母は、私たちの農場に関する全てに“ウチノ”を使いました。例えば、私の父が買ったトラクターは、ウチノ トラクター、祖母流の発音ではウチノ トラクタでした。

ウチノという言葉は、全ては家に属するという発想を放っています。私たちにとって、農場は個人が所有するものではありませんでした。ある意味、農場が家族を所有していました。その逆ではありません。長期的に見ると、家族の構成員一人ひとりは一過性で入れ替わりますが、農場は何世代も続くと考えられていました。

私たちの農場に付随するあらゆるものはウチノで、その他のものはトナリノ(隣の)でした。念のために言っておきますが、一番近い隣家は2、3マイル離れたところにありました。ですから距離の近さとは無関係でした。実際父は、庭から10マイル離れた畑でアルファーファを育てていたこともありましたが、それとは関係なくウチノ アルファーファであり、他の農家が育てている周辺のアルファーファ畑はトナリノ アルファーファでした。

 “どうすることもできない”という意味のシカタガナイも、よく耳にしていたフレーズです。母方と父方の両祖父母が、それをショウガナイと発音していました。父方の祖父母は鹿児島出身で母方は広島です。ですからショウガナイは、西日本の方言か第二次大戦前の昔風の言い方なのだろうと私は推測しています。

私が最初にシカタガナイという言葉を知ったのは、真珠湾攻撃後の西海岸の日系人の強制退去、強制収容について読むようになってからでした。第二次世界大戦で起きたことは避けられなかったというのが強制収容された人々の一般的な考え方でした。シカタガナイとショウガナイが同じ意味だということを、私はその時知りました。

私が小さかった頃、ショウガナイという言葉は農家の暮らしの中でのみ使われていました。農業では人の手に負えない変化しやすいことがとても多いのです。市場変動によって作物の価格が一晩で急落することも、季節外れの凍るような天気で野菜が全滅することも、突然害虫が寄生することも、すべてショウガナイことでした。私たちのウチでは、この言葉はよく使われていました!

ショウガナイと言うことの真意は、自分たちの無力感や脆弱性を表すことではありませんでした。たとえ困難でも自分たちはとにかく元気を出して前に進まなければならない、それが人生だ、ということを表現する一つの方法でした。ある意味それは、特に母がよく言っていたもう一つの言葉で、“耐える”や“辛抱する”を意味する“ガマン”と似ていました。母にとってガマンは、日系アメリカ人の決定的な文化的特徴でした。

私が大学を卒業する前の年、祖母は90歳で他界しました。私は大学に通うために家を離れ、初めて剣道の講習を受ける機会に恵まれました。私はセンセイからケンドウドウグ(剣道道具)という言葉にもある、備品を意味するドウグ(道具)という新しい言葉を教わりました。そしてその時、突然あることに気付いたのです!

農場には、私たちが“ドウグベヤ”と呼んでいた物置がいくつかありました。道具は全てその中に保管していました。私が子供の頃飼っていた意地悪な番犬は、長い紐で物置につながれていました。現代では眉をひそめられるような飼い方ですが、当時はウチノ番犬のロボが、小屋から道具が不思議と消えてしまうのを防ぎました。ロボは祖母が嫌いで、祖母もロボが嫌いでした。ですから柄の短い鍬(現在は違法)をドウグベヤから取ってくるよう祖母に頼まれることは珍しくありませんででした。祖母からスコップを渡され、「ドウグベヤに戻してきて」と言われることもありました。

祖母がドウグベヤと呼んでいた長い間、私はそれが“物置小屋”を意味しているとは知りませんでした。ヘヤ(または~ベヤ)が部屋を意味することは知っていました。祖母が私の寝室をそう呼んでいたからです。ロドがいたので、私は祖母が物置を“ドッグ部屋”、または犬小屋と呼んでいるのだとずっと思っていました!祖母がドウグと言う時、それは“道具”を指していました。私は、祖母が“ドッグ”ではなく“ドウグ”と言ってたことに、大学生の年齢になって初めて気付いたことが信じられません。それは、祖母の日本語訛りを通して私がニッケイ語を発見した最後の一歩でした。

 

© 2016 Tim Asamen

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このシリーズについて

「アリガトウ」「バカ」「スシ」「ベンジョ」「ショウユ」・・・このような単語を、どのくらいの頻度で使っていますか? 2010年に実施した非公式アンケートによると、南カリフォルニア在住の日系アメリカ人が一番よく使う日本語がこの5つだそうです。

世界中の日系人コミュニティで、日本語は先祖の文化、または受け継がれてきた文化の象徴となっています。日本語は移住先の地域の言語と混ぜて使われることが多く、混成言語でのコミュニケーションが生まれています。

このシリーズでは、ニマ会メンバーによる投票と編集委員による選考によってお気に入り作品を選ばせていただきました。その結果、全5作品が選ばれました。

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  編集委員によるお気に入り作品:

  • ポルトガル語:
    ガイジン 
    ヘリエテ・セツコ・シマブクロ・タケダ(著)

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執筆者について

インペリアルバレー開拓者博物館の常設ギャラリー、日系アメリカ人ギャラリーのコーディネーター。祖父母は、現在ティムが暮らすカリフォルニア州ウェストモーランドに鹿児島県上伊集院村から1919年に移住してきた。1994年、ティムは鹿児島ヘリテージ・クラブに入会し、会長(1999-2002)と会報誌編集者(2001-2011)を務めた。

(2013年8月 更新)

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