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ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

ジェームス・道也・吉永

ジェームス・吉永さんは、1929年、ロサンゼルスのダウンタウンの一角で福岡県出身の母親と鹿児島県出身の父親との間に長男として生まれた。父親は農村の小地主の息子で、ジェームスさんが3才の時、一家で一時的に日本へ帰国した。まもなく再渡米した両親はロサンゼルス郊外のグレンデール市で中華料理店を営んでいたが、1937年、一家は再び一時帰国のつもりで鹿児島へ戻った。この時、ジェームスさんはグレンデール市のジョン・ミュアー小学校の2年生だった。

祖母の住む農村で新たな生活をはじめたジェームスさんは、たちまちいじめの対象となった。坊主頭、下駄履きの農村の子供たちにとって、長髪、革靴のアメリカ風の格好が奇異に映るのは当然だった。薩摩弁は慣れるまで何を言っているのか理解できなかったが、ロサンゼルスで毎週土曜日に日本語学校へ通っていたお陰で、同じ2年生のクラスに入れてもらえた。数年後には、皆と仲良くなることができたという。

ジェームスさんが小学6年生の時、第二次世界大戦が始まった。翌春中学校に入る頃には、日本全土が軍国主義一色に染まっていた。伝統的な黒い学生帽と霜降りの学制服は街中から姿を消し、カーキー色をした帽子と国民服、ゲートルを身につけなくてはならなかった。まるで軍服のようだったと当時を振り返る。

五体満足な日本男児はいつでもお国のために戦うのが当然のことと思われていたが、幸いな事に、ジェームスさんに徴兵礼状が届く前に戦争は終わった。しかし街中はほとんど破壊されていた。終戦のわずか4日前の1945年8月11日、ジェームスさんの母校も、ダグラスA -20 地上攻撃機の編隊の攻撃を受け、20人の犠牲者を出していた。

1950年に旧制鹿児島工業専門学校(現鹿児島大学工学部)を卒業後、就職先としてある地方自治体を紹介された。しかし、二重国籍を持つジェームスさんは、アメリカの市民権を保有する人が、日本国籍を持った人しか就けない職業に就いた場合、アメリカの市民権を剥奪されると伝え聞き、この就職を断念した。

その頃、GHQ の指示により、いわゆる「農地改革法」が施行された。この法により、地主は、自分で耕作している田畑以外の土地は、実際に耕作している小作人に戦前の価格で譲渡しなければならなくなった。小地主だった両親は、それまで小作人から納められていた「上納米」と農地を失い、再びアメリカ行きを意識し始めた。

1952年6月、ジェームスさんは単身ロサンゼルスに戻り、庭師のヘルパーとして働き始めた。庭師は、その当時強制収容所から出てきて再出発を余儀なくされた多くの一世や帰米二世にとって格好の職業だった。

帰米して約1年後の1953年6月、ジェームスさんは米国陸軍に徴兵された。中学生の時、戦時下の日本で軍事教練を経験したジェームスさんにとって、アメリカ育ちの新兵達が愚痴るほど、アメリカの新兵教育を苦痛には感じなかった。新兵教育終了後、日本語を解する事が幸いし、語学・情報分析などの適性検査で資格認定を受けた。最終的に韓国ソウル市駐屯の米第8軍団の302情報中隊に配属され、1955年6月に名誉除隊した。同年9月に軍務に服した除隊兵に与えられる奨学資金(GI BILL)を利用してカリフォルニア大学バークレイ校に入学、建築学を学び、1959年に卒業した。

1961年、ジェームスさんは、ロサンゼルス市都市計画局に大卒の新規採用レベルのプラニングアシスタントとして採用された。その後、数箇所の部署を経てロサンゼルス中心部のマスタープラン(用地計画)を作製するセントラル・シティ部に配属された。担当地域はその名の通り中央商業地区(Central Business District)とリトル東京やチャイナタウンを含む周辺地域であった。

それからまもなくして、ジェームスさんは、ロサンゼルス市の職員としての職責と日系コミュニティの一員としてリトル東京を守らなければならないと言う相反する二つの選択を迫られた。ロサンゼルス市の都市計画の一環として、交通渋滞を解決するために市内の道路を規定の広さに拡張すべきだと言う提案がなされ、リトル東京のイースト・ファースト・ストリート(East First Street)もその対象となったからだ。

ロサンゼルス市内の道路は重要度・交通量により一級幹線道路(Major Highway)、 二級幹線線道路(Secondary Highway)、地区道路(Local Street)と区別されており、道路幅員はそれぞれ100フィート、86フィート、60フィートと規定されているが、全ての道がその規定幅員を満たしているわけでない。問題となったイースト・ファースト・ストリートも、一級幹線道路と指定されてるが、その幅員は86フィートしかない。そのため、もしこの道路拡張案がリトル東京にも適用されれば、サンペドロ・ストリート(San Pedro Street)とアラメダ・ストリート(Alameda Street)の間を100フィートまで拡張しなくてはならず、「小東京の顔」ともいうべきイースト・ファースト・ストリートの北側の建物を全て取り壊さなくてはならなかった。日本の香りが漂う戦前からの懐かしい町並みを取り壊すことに対し、コミュニティの反対は大きかった。

日英両語を解するジェームスさんは週2回、この問題について日系社会のリーダー、土地所有者、テナント等と、リトル東京の進むべき進路について情報交換をし、話し合いを重ねた。

合同教会のハワード・トリウミ牧師や後に全米日系人博物館の創始者の1人となるブルース・カジ氏ら日系コミュニティのリーダーは、危惧の念を声高に発した。「戦前から残るイースト・ファースト・ストリートの町並みは歴史的な文化財であり小東京を守るために保存されるべきである」と。

ジェームスさんも、日系社会の立場に共感し、「市全体の交通事情から見るとイースト・ファースト・ストリートの拡張は交通渋滞の緩和にある程度役立つかもしれないが、日系社会にとってかけがえのない残り少ない大切な歴史的建造物の喪失を意味する。そのため、小東京のさらには日系社会のためにも、それらの建造物を保護する手段を模索しなければならない」と主張した。ジェームスさんの上司のラヴレイ氏(Lovret)は日系人でないにもかかわらず日系社会の直面する危機に深い理解を示し、ジェームスさんが小東京の問題解決に存分に援助出来るよう便宜を図ってくれた。

その後、「市と交渉するためには、個人個人の地主やテナントではなく、リトル東京を代表する団体が必要だ」という都市問題に詳しい市職員の教示により、「小東京再開発協会」(Little Tokyo Redevelopment Association)が結成された。60年代半ば、リトル東京は都市再開発法に則った再開発地区として制定され、ロサンゼルス市再開発局(Los Angeles Community Redevelopment Agency)のもとで再開発事業を遂行することになった。その結果、East First Street の道路拡張計画は白紙に戻り、道路北側の町並みは歴史的保存地区に指定された。ジェームスさんは1999年に退職するまでの40年近い間、市職員としてコミュニティの活動を陰ながらサポートしてきた。

その後、二世達が苦労して再開発の軌道に載せたリトル東京がこれからも永く残ることを願い、2005年に全米日系人博物館でボランティアを始めた。ジェームスさんは、子供や孫たちのためにあらゆる困苦に耐え忍んでアメリカで生きてきた一世達への感謝の気持ちを忘れていない。

現在、ジェームスさんは、バイリンガルツアーガイドとしてまたは翻訳の手伝いなど、バイリンガルとしてのスキルを活かしながら、博物館活動をサポートしている。

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へミア・ナカジ・モニア氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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© 2016 The Rafu Shimpo

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このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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