ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/6/20/minato-gakuen-and-me/

みなと学園と私

私たちは新しい鉄道の開通に喜び、大いに利用しますが、用地の確保から線路の敷設に携わった人々の苦労には思いが至りません。今村氏のブログで、今回、みなと学園創設期のお話を読ませていただき、「みなと学園号」が順調に走り出すまでのご苦労をこれまで知らずに過ごしていたことに気がつきました。

私が初めてみなと学園の存在を知ったのは、学園がスタートして間もないころで、まだ校舎がミラマー・カレッジにありました。夫と私は1977年にケンタッキー州からサンディエゴに越してきました。ミラメサ地区に落ち着いたころ、5軒先に日本人家族(有居武人さん Landscape Architect)が住んでおられ、さっそく親しくお交わりいただきました。その家族の子供たちがみなと学園に通っていて、ある日、両親が何かの都合で送り迎えができず、私が代行したことで、みなと学園を知りました。

1983年、私は代用教員として初めてみなと学園の教壇に立ちました。正式の教員としては85年から5年間務め、その後5年間あいだを空けましたが、96年に学園に戻り、2001年の退職まで主に小学校低学年の担任を務めました。合計12年間の務めでした。 

みなと学園の一日は、校庭での朝礼とラジオ体操から始まります。全校生が整列して、私の年代の者にはとても懐かしい「第一体操」をやりました。

1989年1月、新年最初の朝礼は、いつもと様子が違いました。ラジオ体操はなく、黒い背広に黒ネクタイの里見校長が全校生の前に立たれ、天皇陛下の崩御について語られました。生徒たちも、教員たちも厳粛な思いで校長先生のお言葉に耳を傾けました。

運動会、1987年

みなと学園の1年を通して一番盛り上がる催しは、なんと言っても運動会でした。ワンゲンハイム・ミドルスクールの校庭(野っ原の感じでしたが)に全校生と家族が勢ぞろいしました。きれいに描きあがった石灰のトラックの周りを生徒席、父兄席が埋めます。競技が始まると、父兄席のお父さんたちが、一斉に8mmカメラ(今日のカメラよりはるかに大きくて、重量がある)を肩に載せてトラックの周りに並びます。

私は毎年「召集係」を引き受けました。競技の順番に従って、出場する生徒たちを呼びに行き、隊列を組んで待機させます。例えば徒競走のときは、5人を一組にして列を作ります。同じくらいの体力の子供たちで競争できるように、背の順で並べる配慮もしなければなりません。紅白リレーのときには、赤組、白組に分けて、学年順に並ばせます。中にはじっと座って待つことの苦手な子もいて、本番になって、姿が見えなくなっていることもあり、臨機応変の対応も必要になったり、なかなか気を遣う役目でした。

七夕、1986年

PTA主催のピクニックは年に一度の大きな楽しみでした。クヤマカ山系入り口のジュリアンにりんご狩りに行ったり、エスコンディドのデキソンレイク公園に出かけたのが楽しい思い出として残っています。

ワンゲンハイムの校舎はバンガローでした。夏は窓を開け放して授業をしました。めったにない雨の日ですが、休み時間になると、子供たちは外に飛び出して行き、水溜りで、ぴちゃぴちゃと水を跳ね飛ばして遊びました。子供たちには水溜りもけっこう面白い遊びのようでした。

当時のみなと学園のオフィスはMiramar Roadにありました。事務室にはコピー機が一台あり、ぎゅうづめにすれば20人くらい座れる会議室がありました。事務室では草野さんがいつもまめまめしく働いておられました。私たち教員仲間の何人かは子供連れで、教材作りに出かけていました。

私の息子(Eugene Kaneko)は1985年に小学部入学、1994年に中学部を卒業。地元の高校を卒業して大学へ。卒業後、テキサスに本社を置くIT関係の会社に就職。すぐに東京支社に配属になりました。みなと学園での日本語が大いに役立ちました。2年後に(アメリカに)帰国し、現在はサンディエゴで自分のビジネスを持っています。日本での2年間で、みなと学園の同級生、同窓生との交友は深まり、今でもときどきリユニオンの機会があります。

娘(Aya Kaneko)は1986年に入学。中学2年まで通いました。地元の高校を卒業し、地元の大学に入学。在学中に東京の国際キリスト教大学(ICU)に1年間留学しました。みなと学園で学んだおかげで、日本の大学の授業について行くことができました。大学卒業後は、中国で英語教師として1年半過ごしました。現在はフロリダで牧師の妻として、中国系と日系の人々の中で暮らしています。

金子一家、1992年

みなと学園の卒業生たちは、特別の仲間意識を持っています。学園で学ぶ苦労は(親の苦労はもちろん大きいですが)子供なりに経験しています。現地校での土曜日のアクティヴィティには全く参加できないし、スポーツのクラブ活動もできません。学友から誘われても、応じることができないことで、誰もが相当なフラストレーションを感じて過ごしてきています。高学年になればなるほど、土曜日は、親に引きずられるようにして登校しているのが実情でした。ですから、どの子も「同類相憐れむ」の仲間意識を持っており、その仲間意識が学園を去った後も彼らを強い絆で結んでいます。

みなと学園の本来の目的は、一時米国滞在の子供たちが、帰国後、日本の学校にすみやかに順応し、学力の水準を保つことができるようにするというものです。帰国する子供たちが対象のはずですが、私の子供たちのように日本に帰ることのない子供たちまで大きな恩恵を受ける機会になっています。私が受け持ったクラスの約3分の2が日系企業と大学関係者の子供たち、残りの3分の1は私の子供たちのように米国生まれの「日系人」と、国際結婚の夫婦の子供たちでした。本来のみなと学園の目的を超えて、日本語と日本の文化を日系人、またはアメリカ人を通して継承していくという大きな働きも、みなと学園が担っていることに気づかされます。

息子の息子(私の孫)が3歳になりました。あいうえおを学び始めています。今からみなと学園に入ることを目指しています。創立38年を経て、孫が入学する時代になったかと感慨を覚えます。39名の生徒でスタートした学校が、今や、北米で上位十校に入る大きい補習校に成長したのは、まさしく創設期に苦労された方々の蒔かれた種が実を結び、実を結び続けていることを意味します。サンディエゴの日系社会の大きな文化資産と言えます。

創設期の人々が次世代の成長を心から願い、敷設し、後に続く者たちが努力して走らせてきた「みなと学園号」に私と子供ふたりが乗せてもらい、ほんの数区間だけですが、貴重な経験を味わうことができたのは幸いでした。

 

© 2016 Teiko Kaneko

このシリーズについて

「アリガトウ」「バカ」「スシ」「ベンジョ」「ショウユ」・・・このような単語を、どのくらいの頻度で使っていますか? 2010年に実施した非公式アンケートによると、南カリフォルニア在住の日系アメリカ人が一番よく使う日本語がこの5つだそうです。

世界中の日系人コミュニティで、日本語は先祖の文化、または受け継がれてきた文化の象徴となっています。日本語は移住先の地域の言語と混ぜて使われることが多く、混成言語でのコミュニケーションが生まれています。

このシリーズでは、ニマ会メンバーによる投票と編集委員による選考によってお気に入り作品を選ばせていただきました。その結果、全5作品が選ばれました。

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  編集委員によるお気に入り作品:

  • ポルトガル語:
    ガイジン 
    ヘリエテ・セツコ・シマブクロ・タケダ(著)

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執筆者について

福島県石川町生まれ。1973年に結婚し、科学者の夫と共にカナダのニューブランズウィックへ移住。1977年に、アメリカのサンディエゴへ移り住む。1985年から2001年にかけて、みなと学園にて教鞭をとり、現在はサンディエゴ南バプテスト日本語教会にて秘書を務めている。

(2016年6月 更新)

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