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ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

ウィリアム・“ビル”・ヒロシ・シシマさん

ビル・シシマさんは、ご飯のおかずに牛舌、セソ(脳みそ)、そしてメヌード(ウシの胃のスープ)を食べて育った。父親のカツスケさんは、ロサンゼルスのメキシコ系コミュニティーのあるオルベラストリートの近くで食料品店を営んでおり、店ではもっぱら、タマレスに使うチリやマサ(とうもろこし粉)などの食材を扱っていた。店の厨房では、残り物でチョリソーを作っていた。

週末には、チャベス・ラヴィーンに住んでいるメキシコ系アメリカ人が注文をしに店を訪れた。父親は従業員にチャベス・ラヴィーンまで品物を届けさせ、料金を受け取っていた。

ビルさんの兄はメリノール教会のボーイスカウトで活動しており、ビルさんもボーイスカウトに入隊できる12歳になるのを楽しみにしていた。しかし、日本軍による真珠湾攻撃により、全てが変わってしまった。

1941年初め、父親は貯めたお金でメインストリートにあるホテル(現ラ・プラザ美術館の一部)をリースしたが、第二次世界大戦の勃発でその権利を失った。

アメリカ政府がによる日系人の西海岸からの退去命令が出ると、両親は中国系アメリカ人家族に店を売った。一家は、サンタ・アニータ集合所に送られ、駐車場に建てられたバラックに住むことになった。

ビルさんは、競馬場の観覧席に急きょ作られた学校に通った。教科書などを手にした記憶はなく、カモフラージュネットを作っていたり、馬場で野球やフットボールをしている人の姿を眺めたりしていたという。そして、ビルさんはカブスカウトに入った。

ハートマウンテン強制収容所のシシマ一家、1944年。

一家は次にハートマウンテン収容所に移送される。母親は妊娠中だったので寝台車で別々に運ばれ、父親と兄弟は二等車に乗せられ、座席で眠った。

ハートマウンテン収容所では、学校がバラックの反対側の端にあり、1マイルほど歩いて通わなければならなかった。教室にはベンチがあるだけで机はなく、片隅にダルマストーブがひとつ置いてあった。ストーブから離れて座るととても寒いが、近過ぎると暑すぎた。

ボーイスカウト活動では、収容所からハイキングやキャンプに出掛け、地区の団旗をかけて競争した。ビルさんのセントメリー隊は、地区対抗戦で4回に3回は勝ち抜いていたという。

ボーイスカウト第333団 (写真:フランク・C・ヒラハラコレクション、ワシントン州立大学図書館、マニュスクリプト、アーカイブ、スペシャルコレクション)

収容所から解放後、一家は1945年夏、ロサンゼルスへ戻った。父親はリトル東京の一街に、「M&Sカフェ」という名のレストランを開き、その後、スキッドローでホテルを始めた。ビルさんは、ホテル客室の清掃を手伝ううちに、多種多様の売春婦、女装や男装趣味の人々との出会いもあった。

1948年、ベルモント高校を卒業し、ロサンゼルス・シティーカレッジに入学した。朝鮮戦争終結1年前の1952年には、軍に入隊した。名誉除隊後、GIビル(復員軍人援護)で南カリフォルニア大学(USC)に入学。そして、小学校教諭になった。

ビル・シシマ、全米日系人博物館ボランティアガイド

ビルさんは、ボーイスカウト活動を40年間務めた。忘れられない思い出は、高野山のスカウトマスターとしてスカウトの最高位であるイーグルスカウトバッジを受賞したこと、そして、数十年たって今度は、息子がエバーグリーンのスカウトマスターとして同じくイーグルスカウトバッジを受賞したことだという。

ビルさんは、全米日系人博物館のドーセント(ツアーガイド)とし、来館者へ自らの体験談を伝えることでコミュニティに貢献している。子どものときは、収容所の生活は楽しく、ボーイスカウトに入ることもできたのでよかったと思っていたけれど、今では収容所に対して異なった意見を持っている。このようなことは二度とおこらないようにと願っている。

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へマルサ・ナカガワ氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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提供:

 

© 2015 The Rafu Shimpo

bill shishima boy scouts docent heart mountain janm Japanese American National Museum Los Angeles Santa Anita Assembly Center volunteer World War II

このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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