ビル・シシマさんは、ご飯のおかずに牛舌、セソ(脳みそ)、そしてメヌード(ウシの胃のスープ)を食べて育った。父親のカツスケさんは、ロサンゼルスのメキシコ系コミュニティーのあるオルベラストリートの近くで食料品店を営んでおり、店ではもっぱら、タマレスに使うチリやマサ(とうもろこし粉)などの食材を扱っていた。店の厨房では、残り物でチョリソーを作っていた。
週末には、チャベス・ラヴィーンに住んでいるメキシコ系アメリカ人が注文をしに店を訪れた。父親は従業員にチャベス・ラヴィーンまで品物を届けさせ、料金を受け取っていた。
ビルさんの兄はメリノール教会のボーイスカウトで活動しており、ビルさんもボーイスカウトに入隊できる12歳になるのを楽しみにしていた。しかし、日本軍による真珠湾攻撃により、全てが変わってしまった。
1941年初め、父親は貯めたお金でメインストリートにあるホテル(現ラ・プラザ美術館の一部)をリースしたが、第二次世界大戦の勃発でその権利を失った。
アメリカ政府がによる日系人の西海岸からの退去命令が出ると、両親は中国系アメリカ人家族に店を売った。一家は、サンタ・アニータ集合所に送られ、駐車場に建てられたバラックに住むことになった。
ビルさんは、競馬場の観覧席に急きょ作られた学校に通った。教科書などを手にした記憶はなく、カモフラージュネットを作っていたり、馬場で野球やフットボールをしている人の姿を眺めたりしていたという。そして、ビルさんはカブスカウトに入った。
一家は次にハートマウンテン収容所に移送される。母親は妊娠中だったので寝台車で別々に運ばれ、父親と兄弟は二等車に乗せられ、座席で眠った。
ハートマウンテン収容所では、学校がバラックの反対側の端にあり、1マイルほど歩いて通わなければならなかった。教室にはベンチがあるだけで机はなく、片隅にダルマストーブがひとつ置いてあった。ストーブから離れて座るととても寒いが、近過ぎると暑すぎた。
ボーイスカウト活動では、収容所からハイキングやキャンプに出掛け、地区の団旗をかけて競争した。ビルさんのセントメリー隊は、地区対抗戦で4回に3回は勝ち抜いていたという。
収容所から解放後、一家は1945年夏、ロサンゼルスへ戻った。父親はリトル東京の一街に、「M&Sカフェ」という名のレストランを開き、その後、スキッドローでホテルを始めた。ビルさんは、ホテル客室の清掃を手伝ううちに、多種多様の売春婦、女装や男装趣味の人々との出会いもあった。
1948年、ベルモント高校を卒業し、ロサンゼルス・シティーカレッジに入学した。朝鮮戦争終結1年前の1952年には、軍に入隊した。名誉除隊後、GIビル(復員軍人援護)で南カリフォルニア大学(USC)に入学。そして、小学校教諭になった。
ビルさんは、ボーイスカウト活動を40年間務めた。忘れられない思い出は、高野山のスカウトマスターとしてスカウトの最高位であるイーグルスカウトバッジを受賞したこと、そして、数十年たって今度は、息子がエバーグリーンのスカウトマスターとして同じくイーグルスカウトバッジを受賞したことだという。
ビルさんは、全米日系人博物館のドーセント(ツアーガイド)とし、来館者へ自らの体験談を伝えることでコミュニティに貢献している。子どものときは、収容所の生活は楽しく、ボーイスカウトに入ることもできたのでよかったと思っていたけれど、今では収容所に対して異なった意見を持っている。このようなことは二度とおこらないようにと願っている。
* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へマルサ・ナカガワ氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。
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