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ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

メイ・フジノさん

メイ・フジノさん (写真提供:日刊サン)

メイ・フジノさん(1933-2016)は、全米日系人博物館でボランティアとして過ごす時間を楽しんでいた。博物館では歴史や日本語の勉強に没頭し、少女時代を思い出すこともあった。メイさんの家族は、困難を極めた時代にも、いかなる状況に置かれようと最善をつくす術を持っていたという。

1933年カリフォルニア州サリナス生まれのメイさんは12人兄弟の長女で、「だから私は大将だった」と笑った。両親は共に広島にルーツを持ち、一世の父は10歳でアメリカに渡り、母親は帰米二世だった。両親は共にバイリンガルで、メイさんの母語は日本語だったため、日本語学校には通わなかった。「一世の子だから」とメイさん。

言語的な障壁はなかったが、一家は他の問題に直面していた。1913年の排日土地法により、外国生まれの一世は土地を購入することができなかった。幸いメイさんの家族は、母親の名義で不動産を購入し、登録することができた。メイさんの父親は自動車の整備工で、サリナスで修理工場を経営していた。

1941年、米国は第二次世界大戦に参戦し、大統領令第9066号が発令された。一家は立ち退きの際に家の窓に板を貼り、不動産会社に鍵を預けた。メイさんの父親は、友人たちが家財道具や荷物を詰めた車を保管できるよう、修理工場のスペースを無料で提供した。その後一家は、アリゾナ州のポストン収容所に送られた。

第二次世界大戦が終わり、自宅に戻ると大事なものが大量に盗まれていた。父親の釣り道具が全てと、車の修理道具一式、メイさんの祖母が贈ってくれた着物を詰めたトランクがなくなっていた。戦時転住局が捜索し、父親の名前入りの大きな道具や機械は見つかった。少しでも取り戻せたことを父親は喜んでいたという。

いくつか戻ってきた道具はあるものの、戦後の一家の生活は楽ではなかった。大型店は父への販売を渋り、工場に必要なものを揃えるのに苦労した。ある兄弟が経営する店だけが、営業時間後にガソリンや車の部品をこっそり売ってくれた。

サリナスに戻った日系アメリカ人のほとんどに持ち家はなく、住宅を貸してくれる業者もなかったため、多くは路頭に迷っていた。メイさんの家族には家があったので、父はそうした人々を住まわせ、母は食事を振る舞った。何年か経って当時泊まった人たちが、両親へのお礼をメイさんに言いに来てくれたが、名前は思い出せなかったという。「大勢が出入りしていたから、誰が誰か分からなかった」とメイさん。寺にも大勢が身を寄せ、人で溢れていた。

生活が落ち着くと、メイさんはPTAや寺のボランティア活動をするようになり、1997年から活動している全米日系人博物館が最も身近な場所となった。メイさんは、2016年2月に亡くなるまで熱心にボランティアに取り組み、何より仲間との交流を大切にした。メイノさんはこう語った。「私たちボランティアは週に一度集まり、みんなで昼食をとります。家族のようです。楽しいですよ。私は人と話をするのが好きなんです」

メイさんは、博物館の教育部門で折り紙やもの作りのクラスを担当し、小さな子供たちに行李などの折り方を教えた。行李は、日本人移民が米国に渡る際に荷物を収納して運んだ籠だ。

ボランティアメンバーは互いの誕生日を祝い、表彰の機会を設け、イベントを企画するなどして活動への参加を促進していたが、メイさんは若者の参加がないことを時々心配していた。一方で、戦争体験のある年配の人たちは、粘り強く活動を続けている。

「現在88歳を越えて活動しているボランティアが3人います。毎週皆さん自分で博物館に運転して来ています。語り継ぐべきストーリーがたくさんあるのです。日系人の体験をこれからも伝えていきたいと思います」とメイさんは語った。

(写真提供:全米日系人博物館)

編集後記:本稿の執筆からしばらくして、メイ・フジノさんは2016年2月に惜しまれながらお亡くなりになりました。フジノさんの死後、この原稿は編集されました。3月20日に葬儀は行われ、続いて告別式が全米日系人博物館で行われました。フジノさんは、大勢の家族や友人、同僚に見送られました。フジノさんの不在をとても寂しく思います。

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へ大西良子氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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提供:

 

© 2015 The Rafu Shimpo

california janm Japanese American National Museum May Fujino nisei salinas volunteers

このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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