ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/3/14/mary-karatsu/

メリー・カラツさん

メリー・カラツさん(写真提供:全米日系人博物館)

「1993年に大規模な非営利団体の会長補佐を引退した後、私はボランティアとして第二の人生を歩み始めました」とメリー・カラツさんは言う。決断力と人間的な魅力を兼ね備える彼女は何年もの間、全米日系人博物館のような地域密着型の組織の間で大立者であった。

彼女は初め、お世話になり、他人に奉仕するとはどういうことかを教えてくれたある白人女性からインスピレーションを得た。「彼女の存在は私の人生に大きな影響を与えました」とメリーさんは言う。「私は子供のころ、彼女のようになりたいと思っていました」

28年間、彼女はアメリカ最大の非営利組織の一つYMCAで会長補佐として働いた。彼女の職務経験は、彼女が博物館の初期の支持者となり、ボランティアたちのリーダー役を担ううえで役に立ったという。彼女はベストセラーとなった料理本「Cooking with Love」の制作委員長を務め、イベント表彰委員会を通して企画したオール・ミュージアム・タレント・ショーケースでも二度指揮を執った。また、20年以上前、ジェニファー・ヒラノさんとともにボランティア向けの会報「Volunteerly Speaking」の制作と命名も行った。

しかしながら、彼女が最も得意とするのは資金集めだ。「(資金集めは)最も大変なことの一つで、どの非営利組織にとっても最も重要なことです」と彼女は言う。博物館が開館して間もないころ、メリーさんは10万ドルの資金集めを目標にしたウエストサイド・グループの一員だった。「私たちは基本的に家族や友人に連絡をとりましたが、誰もが協力的でした。皆が全米日系人博物館はいいアイデアだと考えていましたし、私たちはブルース・カジさんやアイリーン・ヒラノさんのような活動の参加者とも知り合いでした。15万ドルを集めることができたとき、私たちは非常に誇りに思いました」

メリーさんと夫のジョージさんは、1996年に第一回Museum Family Spirit Awardを受賞し、1999年にはメリーさんがミキ・タニムラ優秀ボランティア賞を受賞した。

(写真提供:全米日系人博物館)

6人兄弟の3番目であるメリーさんは、戦争が勃発したとき17歳で、UCLAに通っていた。彼女は姉とニューヨークに移り、叔父にアパートを手配してもらう。彼女はビジネススクールに通い、パン屋用の用品店で職を得た。

「私たちは農家の娘で、世の中のことを何も知りませんでした」と彼女は言う。「私たちは様々な国籍の人々と交流を持ちました。非常に学びのある経験だったと思っています。私はこの経験を思い返すとき、当時主流だった反日本人の風潮にも関わらず私たちを受け入れてくれたことに感謝の気持ちを感じます」

その後メリーさんは、両親が収容されていたハートマウンテン強制収容所を訪れ、弟と妹をニューヨークに連れ帰った。「私たちはみんなで小さなアパートで暮らしました」と彼女は当時を振り返る。「姉と私が彼らの親になったのです」

同じころ、ジョージ・カラツさんの家族はアマチ収容所に収容されていた。ジョージさんは収容所を出る許可を得たため、できるだけ遠くに行った、とメリーさんは言う。彼はニューヨークに行きついてメソジスト教会でしばらくの間働いた後、アメリカ陸軍に徴兵されて第442連隊戦闘団に加入し、歩兵中隊Gの一員としてヨーロッパで戦った。その後戦争が終わり、1950年に彼とメリーさんは結婚する。

「年を取るにつれて、なぜ戦争が起こった時に私たちアメリカ生まれの市民は疑われ、なぜ私たちを収容する必要があったのかと考えるようになりました。時代は変わり、日系アメリカ人が直面した不当な扱いは調査され、解決されてきました。そして私たち二世は、親から受け継いだ本質的な価値観を、子供や孫たちに伝えたのです」

メリーさんは、日系人の若い世代はしっかりと教育を受け、親から教わった価値観のもと、アメリカ社会のあらゆる分野で成功を収めていると指摘する。例えば彼女の息子のロバートさんは、ランチョ・クカモンガにある図書館の館長を務めており、先日彼の図書館は投票で、全米最高の図書館に選ばれた。

全米日系人博物館への誇りについて彼女は、「人々が私たちの物語を学びに来ることができるこの素晴らしい建物を設けるという考えだけでも非常に意義深いです。そして私たちボランティアにとっては、それ以上のものがあります。今では私たちは家族のような関係です。私たちは共通のバックグラウンドを有し、互いに共感することができるのです」と語った。

(写真提供:全米日系人博物館)

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へエレン・エンドウ氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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© 2015 The Rafu Shimpo

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このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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執筆者について

『羅府新報』は日系アメリカ人コミュニティ最大手の新聞です。1903年の創刊以来、本紙はロサンゼルスおよびその他の地域の日系に関わるニュースを日英両言語で分析し、報道してきました。『羅府新報』の購読、配達申し込み、オンラインニュースの登録についてはウェブサイトをご覧ください。

(2015年9月 更新)

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