ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/9/25/beikoku-29/

第29回 南部大西洋沿岸諸州の日系人

東海岸最初の集団移民?

「百年史」が、第二十五章で紹介する南部大西洋岸諸州とは、ジョージア州とノースカロライナ州、サウスカロライナ州の三州だ。

統計ではジョージア州の日本人人口は1900年に1人、1910年に9人、以下10年ごとに32人、31人、128人で、1960年には885人となっている。この統計より前に、この州に最初に足を踏み入れた日本人について「東海岸最初の集団移民」として、次のような“伝説”がある。

「~1880年代ごろ、フランク・エーケンと呼ぶ英国系人がサバナ港を根城に東洋と貿易し、主に上海との間を往復するうち、それまで使用した黒人奴隷が解放された後の労働者補充に、日本の高知県から二十余名を連れ来りブランズウヰク郊外で米作に従事したことがあり、これが東部沿岸に於ける日本人集団移民の最初とされている。(中略)いずれも四、五年辛抱して帰国したものと見られ、そのうちの一人沢田某は後年永らくクリスマス・カードを送ってきたという」


アトランタでチャプスイ店が

州都アトランタ市では、1920年ごろ安部某という日本人がチャプスイ店を開いた。これが同市で最初の日本人といわれるが、この安部についてもエピソードがある。

「その安部某は一九二三年店へ強盗に入った白人数人を二階からピストルで射撃、一名に命中して即死させた結果当時は有色人種の立場が悪く、裁判になって不利となり、弁護士のすすめで安部はマイアミへ逃げ、のち同地で病死した」

このほか、アトランタでは東京出身の吉沼貞次郎や熊本出身の松永四郎がチャプスイ店を開いて繁盛させた。吉沼は1923年ごろから日米開戦まで大規模な営業をつづけ、店は町の名所とまでなり同市の有力なアメリカ人とも親交があった。

松永は1928年にフロリダのマイアミから移住してきて、日米開戦まで店をつづけた。自発的に閉店したが戦後再開した。

このほかの日本人の活動としては、はやくから同市内のエモリ大学の宗教科と医科に常に5、6人の日本人学生が在学していた。また、戦後は山林を開いて温室栽培をして成功するものがいた。

戦後の1946年には郊外のアバンデールヘ、デンバーで雛鑑別技術を習得した古藤フランク一家が移住して、養鶏場を経営して成功した。

こうした成功者の話が語られているなかで、特別扱いされているのが仏円幸彦(ぶつえん・さちひこ)という人物である。「百年史」で各州別に日系人の活動が紹介されているが、移民後は多くの日本人がよりよいチャンスをもとめて、あるいは事業の失敗など事情があって、全米内で移動している。西海岸の場合はこれに戦争が大きく影響して、転住していくことになる。


州をまたいでの農園事業で成功

仏円幸彦氏、「百年史」より

特に事業を成功させた人や広域にわたってビジネスをする人たちは、州を跨って百年史のなかで登場することがある。仏円幸彦はその代表格である。「全米ほとんど彼の足跡を見ぬ州はないほどの波乱に満ちた移民地開拓者の数奇な半生」と言われた彼は、広域にわたって農場経営をしたり日本人会の重職についたりした。また、移民帰化法の成立に尽力するなどし、日本政府からの褒賞も受けている。

彼の生涯や事業については、ジョージア州のなかでかなりの紙幅を割いて紹介している。

1887年1月1日に広島県安芸郡熊野町に生まれた仏円は、1906年にサンフランシスコに渡り、オレゴン州ポートランドに移る。最初は入植事業に失敗するが、ワイオミング州の炭鉱で日系人労働者の管理などをし、コロラド州では開発工事の請負などをこなした。1920年からはアイオワ州でポテト、コーン、麦などの耕作にあたり、また400マイル離れたミネソタ州で玉ねぎを栽培、さらに同時にインディアナ州でも野菜作りをするなど三州にまたがって農園事業をし、この間シカゴで日本農産会社を仲間と起して農産物仲介業にも携わった。

1931年にはジョージア州ブランスウイクに移り、共同でレタス栽培も大々的に行い、戦後もつづき大規模農園として成功した。この農場は同州南部のホワイトオークにあり、メリフィールド・プランテーションと言われた。

当初は仏円と兵庫県人大前一郎の共同経営だったが、戦後は尾崎藤楠の一家らが加わり、ジョージア州大西洋岸の日系人の拠点となったほか、アメリカ人の間でも評判になっていた。

仏円は政治力もあり、あるときワイオミング州の炭鉱で日本人が博打のケンカから同じ日本人を殺してしまい死刑判決を受けたとき、知事に面会し二年の監視付きということでこの男を釈放させたこともあった。


日本人として死ぬ覚悟

ノースカロライナ、サウスカロライナの両州では戦前日本人の数は少なく、統計では1910年に「2人、8人」で、その後10年ごとに「24人、15人」、「17人、15人」、「21人、33人」となり戦後1960年にはぐっと増え1265人、460人となっている。 

百年史では、人種的な偏見が強いとしているサウスカロライナ州のなかで、ひとりの日本人について詳しく紹介している。それが長崎県出身の徳永三都夫である。1909年に渡米してサウスカロライナ州の州都コロンビアに行き、以来同市に定住した。彼がおそらく同州最初の日本人だろうという。

徳永は、花栽培のグリーンハウス(温室)に就職して、長年働いてきた。1914年にはドイツ系の女性と結婚、子供が二人生まれるなか、生活は苦しかったが仕事熱心で近所からは絶大なる信用を得ていた。このあとの彼が独立するまでの物語を百年史は、親しみを込めて記している。

「~何か独立事業に入りたいと思ううち、売り物のグリーンハウスがでたが資本は一文もなかった。そこで銀行に行き、融資を受けんとし、抵当に何があるかと問われ、妻と子供二人以外に持ち物はないと答える以外に道はなかった。普通なら貸せぬが、と銀行のキャシャーが大枚一二〇〇ドルを出してくれた。妻子三人連れで無一文ながら徳永三都夫の日ごろの正直と勤勉さを見聞きしていたキャシャーの英断で、現在一五エーカーの土地と三ヵ所二九棟のグリーンハウス、市内に三ヵ所の花小売店を所有・・・」

徳永は、アメリカでの成功者であるが、「自分は、天皇陛下万歳を三唱して死ぬる」と言って帰化することはなかった。また、日米修好百年祭に際して表彰されることに決まっていたようだが、「自分は日本のために何も表彰されるようなことをしていない」と、これを辞退したという。

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「フロリダの日系人」について紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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