ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/6/26/beikoku-23/

第23回 中央部五州の日系人

「百年史」では、カリフォルニアなど西海岸の諸州では多くのページを割いていたのが、アメリカ中央部の州ともなると、日本人の足跡や実績は少ないのか、あるいは情報も少ないのか、きわめて限られたページで紹介しているに過ぎない。

「第十七章 中央部五州」として紹介されているのは、北からアイオワ(Iowa)、カンサス(Kansas)、ミゾリー(Missouri)、オクラホマ(Oklahoma)、アーカンソー(Arkansas)の5州である。

5州とも戦前の日系人の人口は統計によると、1940年時点でオクラホマ29人、カンサス19人、ミゾリー74人、オクラホマ57人、アーカンソー3人と少ない。これが戦後に急増するのは、「軍人花嫁の増加」であるという。1960年をみると、人口はそれぞれ599人、1362人、1472人、749人、237人となっている。

各州別に日系人の足跡を追ってみると……。


アイオワ州の日系人

アイオワ州で農業としての日系人の足跡はまれだが、異色の存在として、4200エーカーの借地でポテトやコーンを耕作した仏円幸彦(広島県人)がいた。農業のほかでは、戦前から少数の日系人雛雌雄鑑別師が季節的に入り込み、戦後は首都デモインに定住した。

デモイン市はノルウェー人などスカンジナビア人が多く、人種的な差別はほとんどなかった。この地に定住した日系人は1932年にごろから鑑別師として来住した吉永兼一(帰米二世)が早く、ついでオマハ(ネブラスカ)から来て日本美術店を経営した山崎ジョージだった。それ以前にはアイオワ大学に留学していた日本人がいた。

戦後は山崎ジョージの店をはじめ日本人の医院があった。エームス市のアイオワ州立大学(農科)に20、30人の教授や留学生が、また、アイオワ大学(医科)にも20、30人の研究生などがいたが、日系社会とは無関係だった。

カンサス州の日系人

日系人は、州内の最大都市カンサスシティーを中心とした地域と、州西部のコロラド州境に近いガーデンシティー一帯で農業を営んでいたくらいだった。

しかし、カンサスシティー独特の日本人の足跡もある。カンサスシティーはミゾリー川を隔ててカンサス州とミゾリー州に跨がっているため、橋梁都市という別名があり、早くから橋梁工事の専門技術が発達、日本からも研究者が数多く滞在した。

日本でも教えたことがあるワーデル博士が当市で橋梁設計図案会社を創設したため、日本から教え子たちや若い工学士が入れ替わり立ち代りやってきた。1900年前後のことである。

商業方面では日本美術店を開いたり、オマハから来たものが商売をはじめた。洋食店や日本茶園なども開業した。一時は缶詰工場で働く日本人もいたが長続きしなかった。

日系人の団体らしきものは組織されなかったが、異色の活動もあった。

「一九二五年に開業した古市謙吉歯科医(千葉)が、日白人社会の公私に尽くし、私設日本領事の役割を果たした、一九六〇年秋死去した時は、当地英字新聞も写真入りで大きく報道しその遺徳を讃えた」

ガーデンシティーなどでの日系人の農業はコロラド州で鉄道工事に関わっていたものや農場で働いていたものが進出してきてはじめた。砂糖大根の耕作である。戦後から1960年ごろまで農業をつづけていたのは、赤木、丸山父子、城中そのほか5、6戸のみとなっている。


ミゾリー州の日系人

日系人は、州の中心都市セントルイスにほとんどが住んでいるほか、州南部に若干の農家がある。初期の日本人については、セントルイスが交通の要所でもあるため、東西の行き来のなかで、行商のためにやってきた日本人がいたと思われる。

1904年に当地で開かれた万国博覧会を目当てに、シアトルから来て写真館を開いた梶原啄磨(写真技術で全米7人中の一人とされた有名人)のほか、竹細工店などを開いた日本人がいた。万国博には日本政府も大々的に参加し、日本館を建設するなどし櫛引弓人は日本茶園を出し、人力車で人々をあっと言わせたという。

400人ほどが博覧会のためにやってきて、その大部分は帰国するか他都市へ行ったが、残留するものもいて、当地に定住した。

戦時中は、他地方からの転住者が急激に入り込み一時は400家族ほどが暮らしていたが、その後先住地へと戻った。戦後は、日系市民協会が結成されて当地の日系社会の中心になった。また、帰化学校ができるなど、日系人のための教育機関がいくつか登場した。セントルイス以外、東南ミゾリー州のアゾーのホワイト農場では、戦時中に日本人が集団で移住し、一時日本人村が出現した。しかし徐々に衰退した。


オクラホマ州の日系人

日系人は、主として戦前から首都オクラホマシティーを中心に居住、また、タルサ市、バートルスビル地方にも居住している。

初期の日系人について、「一九〇〇年代の初めころ、三井物産会社が出張所を設けたのが日本人移入の始めだとされているが戦後は再開されていない」とある。

戦後は、「一九五〇年前後から軍人花嫁が加速度的に増加し、今日では日系人在住者最高の記録になっている。一九六〇現在に於ける日系人居住主要地とその職業は、ロートン町(兵営所在地)が最も多く、全部が戦争花嫁。次はオクラホマ市のエヤベース所在地で、ここも軍人花嫁が多数を占めている」

職業をみると、農産物卸商、写真館などがある。戦前、戦後を通じて同州には日系人団体は結成されないままできた。


アーカンソー州の日系人

この州の日系人の人口は1910年で9人、20年5人、30年12人、40年3人と少なく、全米でも日系人のもっとも希薄な州のひとつであったにちがいないという。

しかし、この統計には現れない日系人が戦時中多数同州内にいた。同州のローア、ジュロームの二ヵ所に戦時中、立退転住所(強制収容所)が設けられ、1942年から46年までの間、合計1万3千余名が収容されたため、アーカンソー州は一躍在米日系人に知られることになった。戦後その一部がそのまま残留し住み着いたのと軍人花嫁の存在で日系人は急増した。

同州では開戦後は一時対日感情が悪化した。

「その驚くべき悪感情の例をあげれば、ジュローム、ローア両転住所の総取締をした役人が、部下の役人達に『野蛮な日本人の中へ妻子を連れて行くな、危ないから』と警告したといわれ、また日本人がリットルロック市郊外の農場へ移住した当時、地方の村民が家の戸を閉じて恐れ隠れた事等々――」。

しかし、これらは一時的なことでその後は、親しい関係になっているという。

1960年ごろアーカンソーに住む日系人は、農家4家族27人、アーカンソー大学医学部教授(2世)2家族10人、このほか軍人花嫁といわれる人が多数と留学生と日本からの大学教授1家族。軍人花嫁について、「戦争花嫁は円満に家庭生活を営む者が多いが、なかには離婚して働きながら子供を育てている者、或は売笑婦に堕ちる者など異郷で気の毒な人達も少数ながらある」としている。

ローア転住所(収容所)には日本人墓地が残され、一時は荒れ果てていたが、シカゴやロサンゼルスの日系人(ローア転住所にいた縁故者)がお金を出したりして、地元有志の尽力で1961年秋に参詣道路ができ墓地も清掃され、ナショナル・メモリアル・セメタリーとして維持されることになった。2世の勇士のための忠魂碑や亡くなった1、2世の慰霊塔もできた。

ローア転住所跡に建てられた慰霊塔=左、忠魂碑=右(百年史より)

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「イリノイ州のニッケイ人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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