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「昭和の天孫降臨」と呼ばれた男・多羅間俊彦 ~世界の反対側の貴種流離譚~ その2

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ニセ宮詐欺事件もおきた終戦直後

サンパウロ市のホテル・ロビーで取材(2013年1月10日)した際、移住動機を尋ねると、「多羅間さんに跡継ぎがいないと聞いたから。アメリカ人とはずいぶん付き合いがあったが、プロテスタントの国よりも、南米の方が住みやすいのではないかと思っていたので、前から行きたいと思っていた」と答えた。

当時、同胞社会では大騒ぎになった。終戦直後の勝ち負け抗争の余韻がまだ色濃く残っている時代だった。多羅間さん移住後の1954年にも、〃朝香野宮〃を自称する詐欺師(加藤拓治)が献金を集める詐欺を働いた「ニセ宮事件」、自称〃特務機関〃の川崎三蔵が起きて大きな話題をふりまいた。

ニセ宮事件について聞くと、「朝香野宮は義理の兄弟にあたるから、良く知っている人だよ。ウソだったすぐにわかる。ありえない世界だね。勝ち負けの騒ぎがあるとは聞いていたが、自分とは関係ないと思っていた。その種の人たちが私に接触を求めて来たことはない。もし会いに来たら『バカだね、あんたたち』といってやろうと思っていたよ。そういう機会はなかったけどね」と笑い飛ばした。

多羅間耕地の経営を10年間ほど引き継ぎ、その後は聖市に移転してプロドゥトーレス・コーヒー倉庫会社監査役や経営審議会副会長を30年間も務めた。

移住10年ほどで、沖縄県出身で資産家の花城清安の娘、妻アリッセと結婚した。彼女は戦中を日本で過ごして戦後帰伯した準二世だ。花城家には「琉球王朝の末裔」との噂があったので、もしやと思い、多羅間さんに尋ねると「違います」と一言の元に否定した。

さらに「ブラジルで住むならここで選挙権を取ったほうが良い」と考え、70年頃に帰化した。戦後いち早く皇籍離脱、移住、沖縄系と結婚、帰化と立て続けに、なにかを断ち切るかのような一連の行動をしてきた。

ブラジル東京都友会会長、県連副会長、文協副会長、学術振興会ブラジル協会副理事長などを歴任した。1985年に東京都で世界大都市サミットが開催された際、マリオ・コーバス市長(当時)の特別補佐官として出席し、1990年に東京都と聖州の友好協定の実現にも尽力するなど、日伯をつなぐ懸け橋的な人材として常に交流に参加していた。

2015年1月25日にサンパウロ市内のホテルで行われた東京都友会の創立50周年記念祝賀会で、祝賀ケーキの前に来賓と共にならんだ多羅間名誉会長(右から2人目)

2001年12月4日付の「雅子さま内親王ご出産」記念特集号の折り、多羅間さんは「女性天皇、おおいにけっこうじゃない」と答えていた。「女性天皇、いいじゃないですか。ちょっと憲法を変えるだけでしょう。私は歓迎です」と明るい答えが返ってきた。「女性の天皇は昔にもいた。女性天皇の時代には日本文化も栄えている。女王さまが誕生す れば日本人の意識も変わる。日本も変わるでしょう」。


「さて、私は移民なんでしょうか?」

2013年に「戦後移民開始60周年の特集と一部として取材させてください」と申し込んだとき、多羅間さんは別に怒るわけではなく、ちょっと困ったような表情を浮かべて黙った。少し間をおいてから「さて、僕は移民なんでしょうか?」という質問で答えてきて、こちらが面食らった。「元皇族」という上流階級意識が、わずかにうかがえた一瞬だった。

旧宮家の苗字を捨てて、誰よりも早くブラジルに移住し、沖縄系の女性と結婚し、ブラジルに帰化し、女性天皇を称賛する。元皇族としては、ある意味、過激なほどに自由主義的な気風、開明的な考え方が一貫されている。このあり方は、いったいどこかに由来するのか。

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歴史的に見ると、祖父にあたる久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう、1824―1891)は、幕末の動乱期に「公武合体派」の領袖として活躍した人物だ。「公武合体派」とは朝廷(公)という伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を再編して既存の幕藩体制の強化することを目指した「穏健派」ともいえる一派だ。

幕末動乱では、幕府を改革して済ませようという穏健派「佐幕派」に対して、現状否定して幕府を倒さなければならないと考える急進派「討幕派」がどんどん台頭した。「公武合体派」は佐幕派の一部であり、最終的に討幕派に主導権を握られてしまう。「討幕派」の急先鋒は薩摩藩と長州藩で、最終的にこの勢力が力を握って徳川政権に大政奉還を迫り、明治維新をおこした。

そのため、久邇宮朝彦親王は宮家でありながらも明治の新政権とは距離をおく関係となった。だから明治天皇が御所を東京に移しても、久邇宮家は移住しなかった。

ウィキペディア「久邇宮朝彦親王」(2015年4月22日参照)には《こうした経緯や扱いが、のちに久邇宮邦彦王や東久邇宮稔彦王(註=多羅間さんの父)ら子息たちの感情や行動に、複雑な影響を与えたとの指摘もある》と分析されている。


皇室随一の自由主義的思想を持つ父

東久邇宮稔彦王(註=多羅間さんの父)は1915年に明治天皇の第九皇女と結婚し、1920年にフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学し、《この留学時代、ブランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネやクレマンソーと親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる》(ウィキペディア「東久邇宮稔彦王」2015年4月20日参照)となる。

そんな父の影響を受けた多羅間さんだからこそ、自由主義的な生き方、移民を選んだのかもしれない。

皇室の常で学習院に学んだ多羅間さんは、陸軍予科士官学校に入学した。その当時、16歳だった多羅間さんの写真が、いまも東京の自衛隊基地内に飾られている。慶応大学政治科を卒業した。

東京の自衛隊基地に飾られている陸軍士官学校生徒で、皇族だった時代の多羅間さんの写真(二宮正人さん提供、2015年1月撮影)

父はポツダム宣言受諾3日後、終戦後初の第43代内閣総理大臣(1945年8月17日―同10月9日)として担ぎ上げられた。降伏したとはいえ、まだ日本内外に陸海軍が展開している時であり、GHQが求めるこの内閣の最大の仕事は、日本軍の武装解除だった。皇室至上主義がいきわたっていた当時、それを短期間に命令実行できるのは「皇室内閣」しかないと思われていたようだ。

GHQとの意見の違いもあって短期間で辞任したが、その間、9月2日にミズーリ艦上で敗戦文書に調印された。同年11月に東久邇宮稔彦王は敗戦の責任をとるために、皇族の身分を離れる意向だと表明した。

実際に1947年10月、皇籍離脱し東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)を名乗った。この時、多羅間さんも離脱したわけだ。その後の生活は厳しく、宮家として持っていた財産を売り捌いて凌いだようだ。そんな苦しい離脱の4年後、華々しくブラジルに移住したわけだ。

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幕末期に祖父が「公武合体派」の領袖として活躍したことから、皇族でありながら明治新政府という本流からしいぞけられた歴史的な流れ――。

戦後においてはGHQによって戦争終結の際、日本軍武装解除のために近代史初の「皇室内閣」の総理大臣となって終戦処理の陣頭指揮をとり、真っ先に皇籍離脱した流れ――。

そんな日本近代史の重要な節目に顔を出す「本流と対峙する皇族として担ぎ上げられてしまう活躍の仕方」、そんな風に歴史的に利用されてしまう血筋に対する諦観のようなものが、多羅間さんには備わっていたのかもしれない。

もちろん、地球の反対側に移り住んだ〝貴種〟の人々が、みな貴種流離譚の小説のように〝活躍〟をしたわけではない。中身は普通の人間と同じだが、血筋ゆえに「普通の人以上の何かを持っているのでは」という期待される中で、一介の移民として生活し、彼らなりの幸せを南米の地に求めた生涯だった。

 

© 2015 Masayuki Fukasawa

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