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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(2)

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収容所内新聞から見るコミュニティ図書館

各収容所では当初ガリ版刷で新聞が発行され、WRAからの通達からコミュニティ・ニュースまでを、各家庭に届ける重要な役割を担っていました。WRAは、この新聞にも、原稿をまとめた時点で、ロウ原紙に鉄筆かタイプライターで書き上げた時点で、そして、印刷した時点でと、3回も入念な検閲を課していました。マンザナーにあったのは、マンザナー・フリー・プレスという名前の新聞でしたが、ある被収容者は「なにがフリー・プレスだ。フリーなのは新聞が無料だってことだけで、言論の自由なんてないじゃないか」と憤慨しています。しかし、どこの家に子どもが生まれたとか、野外映画や図書館でのコンサートの予定などを知る、なくてはならないものでした。今回は、このコミュニティ新聞からコミュニティ図書館の成り立ちを探ってみます。

まず、収容所内の図書館について。WRAが外部からプロジェクト・ライブラリアンとして司書をひとり雇い入れます。その司書が収容所にある学校図書館とコミュニティ図書館をまとめる役と、高校図書館の司書とを兼任します。コミュニティ図書館の中に、英語図書館と日本語図書館があり、日本語図書館では日系人が司書をつとめ、絵画、お花、工芸の展覧会が行われたり、音楽鑑賞の夕べが催されたり、潤いのない収容所生活をひととき忘れられるような文化的空間をつくりあげていきます。

マンザナー強制収容所の図書館 (写真:ドロシア・ラング、アメリカ国立公文書記録管理局;Densho ID: denshopd-i151-00436)

収容所で一番人気のある本は?———

どんな本だったと思いますか? ポストン・コミュニティ図書館司書、マベル・オオタによると、機械冷蔵の本が一番人気があったとのこと。1この記事を初めて見た時、冗談だと思いました。みなさんが収容所に入れられたとして、そこで読みたい本は機械冷蔵の本ですか?単調な収容所生活のスパイスになるよう新聞編集者たちは時々軽いユーモアのある記事を入れていたので、今回もそうかなと思ったのです。こんな具合です。 

<迷い子———パパの料理にそっぽを向いて新しい食堂に>

バラック番号33-13-4に住む2歳のヴァージニア・フジイと隣の2歳半になるキンゴ・ハンカワは先週の日曜日の朝、行方不明になり、双方の親は二時間にわたりハラハラした時を過ごしました。

……警察も迷い子探しに呼ばれ、キャンプ内を隅々まで探しました。二人の子どもは正午ごろ、やっと見つかりました。21食堂で静かにランチを食べていたのです。ヴァージニアの父親、マック・フジイは33食堂で働いていますが、自分の子どもが父親の料理を見限って、他の食堂に行くなんて、と少々おかんむりのようすです。2

で、長いあいだ、機械冷蔵の本のことが頭にあったのですが、やはりあれは本当でした。同じアリゾナ州にある、フェニックスから南西に車を走らせて約1時間、ネイティブ・インディアン保留地にできたヒラ・リバー強制収容所では、夏の平均気温が摂氏40度、時には52度に達することもあります。そのために、この収容所は、屋根が二重構造になっています。それでも、この暑さはしのぎにくく、手近にあるものでクーラーを拵えています。他の収容所でも機械冷蔵の本を読んでクーラーを工夫していたのでしょう。ジーンの本にこんな記載をみつけました。

夏の暑さをしのぐために、ほとんどの家庭がクーラーを取りつけた。クーラーといっても箱形の木枠に藁の筵をかぶせたものである。水を筵の上から流し、枠組みの中に置いた電気扇風機を回して、水の浸み込んだ藁の隙間から、外の空気を部屋に吸い込む。この冷房効果は抜群だった。3


蔵書をふやすために———夏から冬にかけて

8月、開館を間近に控えたポストン第二図書館は、蔵書を増やすために、収容所内新聞に借用願いを掲載。みんなから特別に、図書館に本を貸してもらおうという試みです。図書館が借りた本は、装丁され特別な書棚におさめられて、館内だけの利用になる、と細心の注意をもって扱われるとしています。4

ミニドカ強制収容所では、本の収集係をしていた一世のヒロシ・ナガイは考えていました。多くの一世のために、ピュアラップ仮収容所で押収されていた日本語の本を核にして、日本語図書館を作りたいと。1942年10月14日付けの収容所内新聞でこう呼びかけています。

ピュアラップで押収された本は今、ミニドカに搬送中です。お手許にお返しもできますが、日本語図書館にご寄付いただければ幸いです。なお、立ち退きの際、シアトルに各自残して来た本を図書館にご寄付いただけるのであれば、郵送料はこちらで都合させて頂きます。

この呼びかけが功を奏したのか、ミニドカでは12月8日に日本語図書館が開館します。毎日、午前10時から正午まで、午後1時から5時まで、それに夕方6時から8時まで開館。当時、古典、小説、宗教書、詩から哲学書と約1000冊の本が書棚にならんでいました。収容人口が約1万人で、約70パーセントが二世と考えると3000人が一世です。それに帰米二世も日本語の本が必要で、最初の1000冊はすぐに書棚から消えたのでしょう。もっと蔵書を増やす試みがはじまりました。「もし各ご家庭から1冊ずつご寄附いただければ、蔵書は2000冊増えます。どうぞよろしくお願いします」と、1943年1月9日付けの新聞でナガイ司書は語っています。その時、ハシグチさんからH・イノウエ著『海賊』を、ドーゼンさんから野間清治著『講談俱楽部』を、モリさんから『移民史』を、マキノさんから夏目漱石著『彼岸過迄』をそれぞれ最近ご寄附いただいたとも言い添えています。5

一方、シアトル中央図書館の成人教育部長のアリス・フロストは、ミニドカのハント高校のライト校長から、手紙で、収容所内の学校図書館と成人学校用の本の供給について相談を受け、10月末に100冊に寄贈本を添えてミニドカに送りました。また、ライト校長から、日本語で書いてある本についても問い合わせがあり、フロストは「シアトルの日系人はすべてミニドカにいる訳だし、図書館でも本の置き場は少ないので、日本語で書かれた本はすべて収容所に送るのが妥当」と、図書館にあった173冊の日本語の本をすべて、収容所が閉鎖されるまで貸し出すことにしました。ストーブの石炭不足が危機的状況に達していた11月21日、シアトル図書館から日本語の本が届きましたが、これらの本も、収容所内で検閲委員会にかけられ、委員会で許可を与えられた本のリストをワシントンDCにあるWRA本部に送り、そこでも許可を受けなければならない、という長々とした手続きのあったことを、フロストはライト校長からのお礼の手紙で知ったのでした。6  

第三章(3) >>

注釈:

1. The Poston Information Bulletin, Vol. I  No. 21, June 5, 1942.

2. Manzanar Free Press, Vol. II  No.7, August 5, 1942.

3. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」

4. Poston II Official Daily Press Bulletin, Vol. III No. 17, August 11, 1942.

5. The Minidoka Irrigator, Vol. I  No. 9, October 14, 1942.
    The Minidoka Irrigator, Vol. I  No. 25, December 9, 1942.
    The Minidoka Irrigator, Vol. II  No. 3, January 9, 1943.

6. Seattle Public Library Departmental Reports 1942.

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第135号(2013年10月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

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このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。