ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/3/27/beikoku-17/

第17回 ユタ州の日系人

鉄道、鉱山、農業からはじまる 

カリフォルニア州の東隣りがネバダ州、そのさらに東にユタ州は位置する。北はアイダホとワイオミングの両州に接し、東はコロラド州、南はアリゾナ州が控える。気候は比較的乾燥していて、四季ははっきりしているのが特徴だ。 

モルモン教が拓いた地として有名なソルトレーク市を州都に抱えるユタ州は、19世紀後半、鉄道の敷設と鉱山の開発で発展、そのなかに日本人の足跡もある。初期の様子を「百年史」こう記している。

「当州に日本人が入りはじめたのは一九〇〇年代の初め、鉄道工夫、農園労働、或は鉱山人夫として夫々の契約者に送り込まれたのであるが、それより以前、一八九〇年前後、ユタ州オグデン市に日本人醜業婦が入込み、ついでモンタナ州ビユテ方面から流れ込んだ同種の日本人女性がソートレーキ市にも現れたが、当時既に若干の日本人がこれらの地に居住し、その真面目な者たちは極力日本人の醜業に反対し、遂に彼らを放逐したと伝えられる」


日本語学校(学園)も広まる

前回紹介したモンタナ州など鉄道や鉱山・炭鉱で発展した地域と同様にユタ州でもまた、鉄道工事、炭鉱、砂糖大根の農場で、日本人による労働者斡旋の会社から送り込まれた契約労働者が多数働いた。そのはじまりは1903~1904年という。

日本人が開いた食料品店の紹介ページ(「百年史」より)  

農業の元祖はそれより一年早く、1902年に鹿児島県人の伊集院兼雄がオグデン(Ogden)市郊外で農園を開いた。日本人の商業については、1910年ごろには日本人団体ができ、そば屋や理髪店など各種の商店が開き、事業が営まれた。

1930年当時のユタ州日本人を職業別にみると、採鉱・冶金業労働者が840人、農耕・園芸・畜産関係が428人、鉄道労働者が285人などとなっている。

農業組合も各地で形成された。宗教団体としては、オグデン日本人基督教会が、1905年に集会を開いている。この後仏教会も創立した。また、二世が成長するに従い1924年には日本語学校(学園)も誕生した。1940年当時の調べで、その数は合計11校を数え、生徒数は合計521人にのぼっている。


ユタ日報などの新聞が発行される 

日本人が足を踏み入れた早い段階から新聞発行もはじまった。まず1907年にオグデンに住む飯田三郎(サンフランシスコ日米銀行オグデン支店長)が、謄写版刷りの「絡機時報」を出したが、これは3号で廃刊。その後活字印刷にかえて発行された。

1914年11月3日には、寺沢畔夫がソルトレーク市で「ユタ日報」を創刊。ユタ州のほか、アイダホ、ワイオミング、ネバダの諸州で暮らす日本人にも読まれた。ユタ日報は、絡機時報をその後買収、株式会社となってからは英文欄も設けた。

日米開戦で太平洋岸の各邦字紙は休刊、また、太平洋岸の日本人がユタ州に移住してきたことで、ユタ日報はさらなる読者を抱えて、発行部数は一時1万近くになり、戦時下における日系人の情報源となった。


戦時下、日系人社会の中心に

ユタ日報の例にあるように、日米開戦は太平洋岸とは違った影響をユタ州の日系社会にもたらした。百年史の言葉をそのまま借りると…。

「1942年の春、西部沿岸三州の日系人十一万の強制立退命令発布とともに、多数の三州日系人が奥地諸州へ自由立退きせんとするに当り、一部を除き殆どの州がその入州を拒んだ中に、元々モルモン宗により開拓され、早くから親日的であったユタ州は快く日系人を迎えたところから、沿岸三州殊に加州の各地から続々と移住者が殺到、ソートレーキ及びオグデン両市中心に一時は一万数千に及ぶ多数日系人が入込み、商業、農業、又は缶詰工場、或は家庭労働者として就働したため、戦前は凋落の町に等しかった両市の日系人町は俄然活況を呈するに至った」

「その後、州内のトパズ転住所、またアイダホ州のミネドカ転住所からも、州内へ転住するもの続出、ユタ州の日系人人口は急激に増加した。と同時に、戦時下の西部軍防衛司令部がソートレーキ市に設置された関係もあり、全米日系市民協会本部もソートレーキ市に移されて城戸三郎会長以下が市内に事務所を構え、また各地転住所の代表者会議も屡開かれるなど、戦時下在米日本人社会の中心ともなった」

トパズ収容所(写真:トム・パーカー、アメリカ国立公文書記録管理局)


戦後もとどまる日系人

トパズ転住所(収容所)は、ユタ州南西部に位置し、最も多い時で8000人近くが入所していた。立退命令解除後は州内で農業を試みたものもいた。しかし、その後入所者は、カリフォルニアへ引き揚げ、ソルトレーク、オグデンの日系人の人口は急減した。

とはいっても、戦前2210人だったユタ州の日本人人口は、戦後その約二倍に増加、1960年の国勢調査では、その人口は50年度と大差なく4371人だった。こうした傾向の理由として百年史は、「宗教的気風で住み心地がいいこと、子女の結婚などの関係でそのまま残っている家族がいること」と挙げている。

そして、「ユタ州居住日系人が、戦時のあの緊張時を経て、今やすでに定着をつづけていることを示すものであろう」と、結んでいる。

 

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。)

* 次回は、「ネヴァダ州の日系人」です。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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