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伴正一さんと戦後の日本政府の移住政策について

伴正一という名前を聞いてピンときた人は、日本と中国大陸の関係に詳しい人なのかもしれません。伴さんは、1977年から1980年まで中国公使を務め、中国大陸との密接な関係の基礎を築いた外交官のひとりとして知られています。

現代社会における日中関係の功労者である伴さんは、戦後日本の移住政策にも深く携わっていました。今回は、移住と海外貢献いう点において、伴さんが携わった日本人難民の加州への移住と、派米農業労務者事業をとおして、彼の人物像について紹介したいと思います。


伴さんについて

伴さん(著書「ボランティア・スピリット」より)

伴さんは1924年に、高知県で生まれました。父親は、地元高知を代表する名士のひとりで、地域社会で尊敬されており、母親は、由緒ある武家の出身でした。

出自のみならず、経済的にも恵まれた伴さんは、地元の名門校、土佐中学校(現在の土佐中学校・高等学校)に通い、海軍経理学校を経て、戦争中は海軍に従軍しました。戦争が終わると、東京大学法学部に入学し、在学中の1948年に弁護士の資格を得ました。

そんな伴さんには、小さい頃から、日本を国際社会に誇れる国にするための仕事に就きたいという、非常に大きな夢がありました。彼の脳裏には、同郷の偉人で日本の近代化の立役者のひとり、坂本龍馬の存在がありました。

28歳のとき、伴さんはすでに弁護士として活躍し、仕事にも恵まれ、家族をもっていました。しかしながら、「現代社会の龍馬」になる夢をかなえるためには、弁護士では不十分であると考え、一念発起して外交官試験を受験したところ、見事に合格しました。伴さんは外交官として新しいキャリアを歩み始めました。


日本人難民の救済

外務省が伴さんに与えた最初の仕事は、サンフランシスコ(以下、桑港)の総領事館において、書記官として勤務することでした。

伴さんが桑港にやってきた50年代初期の日本社会においては、朝鮮戦争による特需景気が好景気をもたらした一方で、ジェーン台風(1950年)やルース台風(1951年)、など、深刻な風水害にも見舞われていました。とりわけ、九州地方南部を襲ったルース台風の被害は極めて甚大で、鹿児島県では、多くの人々が住む場所や仕事を失い、日本政府はその対応に苦慮していました。

そこで伴さんは、アメリカ政府の定めた難民救済制度を利用し、被災者を加州に移住してもらうことを思いつきました。当時の加州においては、農業労働者の不足が社会問題となっていたので、被災者を加州へ移住させることで、両国の問題は解決するだろうと考えたからです。

また、当時の加州では、知事のアール・ウォレンが、日系人の権利保護と、一世のアメリカ市民権取得に前向きな姿勢をとっていたことも、移住計画推進の大きな後押しとなりました。1

1953年、外務省が音頭をとるかたちで、被災者の移住が始まりました。これは、戦後移住の幕開けとなりました。

伴さんが移住者に願っていたことは、1日も早く、現地の社会に適応してもらうことでした。彼らのほとんどが、英語を話すことができず、雇い主とコミュニケーションがうまくいかなかったことから、双方のあいだには問題が発生しました。そのたびに、伴さんは現場に出向き、仲裁者となって問題の解決に努めました。

伴さんが移住者の支援に奔走した理由として、彼が日本政府という看板を背負う立場であったこともあげられますが、アメリカ社会における日本人のイメージ・アップを図りたいという意図もあったと思います。敗戦国であった日本にとって、日本人のイメージ・アップは、日本という国家の国際的信用を高めるために、必要不可欠とされたからです。


農業労務者派米事業

日本人難民の移住がひと段落すると、伴さんは1956年に開始された、農業労務者派米事業を担当するようになりました。2この事業は、アメリカ国内の不況などを理由に、1964年以降は派米農業研修生という形態に変更されましたが、1956年から1964年にかけて、およそ4,000名の日本の若者たちが加州に派遣されました。この間派遣された若者たちは、短農(短期農業労務者)、または、カリフォルニア農業研修生として知られています。

伴さんの主な仕事は、各地の農場経営者や農業組合の要望を受け、必要な数の日本人を派遣し、関係者の相談役をつとめることでした。雇い主には、日系人農場経営者が少なくありませんでした。その多くは、エスニシティのみならず、労働にたいする倫理観を分かちあった日本人を雇うことで、現場での仕事が円滑に進むことを期待していました。

難民移住のときと同様、伴さんはこの事業でもさまざまな問題に直面しました。とりわけ、第一期(1956~57年)に派遣された若者たちによる、北加はスタックトンのアスパラガス農場において発生した労働争議は、始まったばかりのこの事業に、深刻な問題を引き起こしました。

問題となったのは、ユダヤ系が経営する農場で、経営者が若者たちの同意なしに、時給制の報酬を出来高払制に変更したことが、その主な原因でした。アスパラガスが収穫の時期をむかえていないにもかかわらず、若者たちは朝4時にたたき起こされ、収穫作業を強いられました。しかし、肝心のアスパラガスは収穫できず、報酬は出来高払いのため、結果的にタダ働きの日々が続いた、というわけです。

伴さんは、この知らせを聞き、すぐに現地に向かい、農場経営者と雇用条件の改善に向けた交渉をはじめました。しかし、交渉は難儀し、若者たちの一部には、日本への帰国を決意するものも出始めたので、伴さんは、経営者との交渉を続ける一方で、若者たちの説得にもあたりました。

「君たちは、昔の伊藤博文とか、岩倉使節団のような存在だと思う。苦労して、外国に渡り、外国で多くのものを学ぶ。今回の出来事は、経営者側の落ち度があったことは確かだ。しかしながら、こういったことがあったものの、あきらめずに、めげずに、最後まで頑張ってほしい。明治時代の偉人たちは、外国で苦労を重ねたけれども、日本という国を発展させるために、がまんをするときはがまんをして、じっと耐えてきたわけだから、君たちも、そういった人々から学ぶことは、とても大切なことだと思う。」

過去に外国に渡った先人たちの苦労がのちに実を結んだことを例にあげ、若者たちの今の苦労も、いつかは必ず報われると、伴さんは若者たちに強く説きました。

交渉の結果、伴さんは労働条件を一定水準にまで改善させることに成功しました。ごく一部の若者たちは日本に帰国しましたが、大部分の若者たちは、加州にとどまり、ほかの地域の農場などに配属されました。

これら日本人難民の救済と農業労務者派米事業において、その手腕を高く評価された伴さんは、近い将来の日本政府の外交を担う「ホープ」として、みなされるようになりました。


青年海外協力隊の事務局長として

桑港での任期を終えた後、伴さんは日本の外交政策にかかわるさまざまな仕事に携わりました。プレトリアの総領事館(現在は大使館)やイスラマバードの大使館での勤務、移住課での海外移住事情調査、技術協力課における、日本人技術者の海外派遣など、その幅は、極めて広いものでした。

1960年代中頃になると、外務省は国際社会貢献のため、日本の優秀な技術者を、途上国などに派遣するようになりました。これに関連して、伴さんは、1972年から1977年にかけて青年海外協力隊の事務局長をつとめました。当時、極左思想とテロリズムに手を染めた若者たちの存在が問題視されていたことから、彼はみずから面接官となり、エネルギッシュかつ、将来を嘱望された若者たちの人選に携わりました。

伴さんは、優秀な日本人、とりわけ、これからの日本社会の将来を支える若者たちを積極的に海外に派遣することで、国際社会のみならず日本社会に貢献できる人材を育てていくべきだと考えていました。そしてこの考えは、青年海外協力隊事業の発展につながりました。


その後の伴さん

1977年から4年間、伴さんは公使として北京の日本大使館派遣され、中国大陸との密接な関係の基礎を築きました。これにより、伴さんは日本の外交戦略における功労者として知られるようになりました。

公使としての仕事を終えた伴さんは、周囲の支援もあって、政界への進出を表明しました。伴さんは3回にわたって国政選挙に出馬しましたが、いずれも落選してしまいました。外交官としての知名度は高かったのですが、地元高知県での知名度が低かったことが、落選の理由でした。残念なことに、伴さんは、政治家としてのキャリアを歩むことはありませんでした。

2001年5月、伴さんは77歳の生涯を閉じました。この時、天皇明仁、皇后美智子から、彼が事務局長としてリーダーシップをになった青年海外協力隊事務局(現在の国際協力機構、JICA)をとおして、お悔やみの言葉が送られたとのことです。

伴さんとは、「お役人」という立場ではありましたが、国民を国益を得るための「捨て駒」としてではなく、国家とともに歩むかけがえのない存在として認識してしたと思います。伴さんは政治家にこそなれませんでしたが、文字どおり、「現代社会の龍馬」として、多くの人々から尊敬される存在であると思います。


注釈:

1. アール・ウォレンは、戦前のアメリカ社会における「反日主義の急先鋒」として知られていましたが、日本敗戦直後に親日派へと転向したことでも知られています。

2. 農業労務者派米事業は、敗戦直後の日本の厳しい経済事情の打開策のひとつとして、就職や相続の問題をかかえていた農村出身の若者たちを加州へ派遣し、進んだ加州の農業技術を日本にもたらすこと、日本各地の農村におけるリーダーシップの育成、さらには、国内の開墾や海外移住を希望する若者にたいして、開墾や移住に必要な資本を得てもらうことを目的にはじめられました。もともとは、農林省が那須皓や石黒忠篤、加藤完治といった当時の日本の農業政策の専門家らの助言を得て推進していた事業ですが、計画のさなかに外務省が農林省に圧力をかけたため、両省の共同事業として開始されました。

1956年の秋から翌年の初夏にかけて、第一期生の派遣がおこなわれ、北は北海道から、南は鹿児島まで、1万人以上の若者の中から、約1,000人が選ばれました。すでに難民として移住者を輩出していた九州地方では、応募の倍率が数百倍にふくれあがりました。


参考文献

伴正一 『ボランティア・スピリット』 1978年 講談社

公益社団法人・国際農業者交流協会 『農業青年海外派遣事業50年史―草の根大使たちの軌跡―』 2002年 公益社団法人・国際農業者交流協会

福田恵子 「難民として米国移住した日本人たち」 2008年 ディスカバー・ニッケイ

吉岡逸夫 『政治の風格―総理をめざした外交官 伴正一の生涯―』 2009年 高陵社書店

公益社団法人・国際農業者交流協会 機関紙『ニューファーマーズ』

 

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