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第一章 立ち退きまで (2)

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2. まえぶれ  <1939年 – 真珠湾攻撃まで>

ヘンリー・ミヤタケはシアトルの日本町に住む、元気な中学生の男の子。両親、姉と兄の五人家族。お父さんは渡米当時、カリフォルニアのハンチングトン・ビーチで日本からの出稼ぎ移民と一緒にレタスの栽培をしていました。でもレタスに時々黒いだらだらしたものがつくことが多く、これじゃ二人は食べられないと、ヘンリーのお父さんは農場の借地権をパートナーに譲り、ワシントン州にやってきました。鉄道工事に携わった後、シアトルの日本町で食料雑貨店の経営をしています。両親のそれとなくの心配りと、日本町の中で生活していることで、あまり差別は感じないで子ども時代を過ごしています。

第一次大戦後、ヨーロッパからの移民が急激にふえ、彼らが、早くアメリカの生活習慣になれるように、アメリカ中の商工会議所、教会、職場、図書館等で、英語やアメリカの文化を学ぶクラスが開かれていました。移民の子どもがたくさん通っていたヘンリーのベイリー・ガザート小学校でも、このアメリカナイゼーション・プログラムを行っていました。そのことについて、ヘンリーはDensho(伝承):日系アメリカレガシープロジェクト1のインタビューでこう語っています。

僕は日本学校に行っていました。毎日、現地の小学校と中学校が終わってから、午後4時から多分5時半位までだったと思います。僕が6歳から12歳の間だから、6年間、通ったんですね。じゃ、もう少し僕の日本語、上手になってもよかったのにねぇ。日本学校では、ふざけ回っていました。先生はハシグチ先生といって、とてもいい先生でしたよ。先生は一生懸命でした。僕たちは勉強ができない訳じゃないのが、分かっていましたから。

僕たちは、先生がしなさいって言う事をしないで、ただ勉強ができない風にふるまっていたんです。だから、僕が日本学校から作文とかテストとかを持って帰って、母に見せると、母は「あらっ」と言って、後は何かぶつぶつ一人言です。でも、現地校のベイリー・ガザート小学校では成績が良かったものだから、母はどうして僕が日本学校でもうちょっと真面目にしないのか見当がつかなかったんでしょう。

「どうしてちゃんとしなかったんですか」と聞かれて。

ベイリー・ガザートで僕たちはあまりにもプロパガンダナイズされていたんですよ。今だから言えるんですけど…… あの頃は僕の中でなにが起こっているか、気づきもしませんでした。僕の心の奥で、いかにも僕が生粋のアメリカ人であるかのように、何か日本的なものや日本的な行動に偏見をもっていたのを見抜けなかった。こういう事を理解するには、まだまだ世間しらずでした。2

無題(日本語学校)、ヘンリー・杉本。
マデレイン・スギモト、ナオミ・タガワ氏寄贈。全米日系人博物館所蔵 [92.97.116]

日本語の勉強のために多くの日系の子どもたちは日本学校に通っていましたが、ヨシコと姉のケイコは行っていません。無理強いしなくても、との両親の教育観があったのかもしれません。ヨシコが中学か高校の時のことでしょうか、強い日本文化拒否の心情を綴っています。

日本人の資質と価値が私たちの生活に入って完全にまざりあっていたにもかかわらず、姉も私も、子供のころ、私たちがアメリカ人以外の何ものかであると考えたことは決してなかった。学校では、アメリカの国旗に敬礼し、良き市民となることを学んだ。私たちの教師は、友達の多くがそうであったように、すべて白人であった。私たちの読んだものはすべて英語で書かれており、英語は、もちろん、私たちの母国語であった。……

本来、私たちが誇りにおもうべきはずの事柄を、社会が私たちに恥ずかしいものと思わせていた。怒りを、私たちを仲間はずれにし傷つけた社会へ向ける代わりに、多くの二世は自分たち自身の日本人らしさや両親の日本人的な態度を捨て去ろうとするような時代の風潮でもあったし、また、私たちの自尊心もそれほど低いものであった。私たちはしばしば一世の人たちを、そのみすぼらしい衣服、走り疲れたトラックや乗用車、陽に当たってからからになった畑での長年の労働による日焼けした皮膚、英語を話す力のなさ、習慣、それに好んで食べる食べ物のせいで、恥ずかしいと思っていた。

私にはアメリカ的ではないと思われるやり方で母に振舞われると、私は当惑したものであった。母と一緒の時、通りで日本人の知り合いと会って長々としたお辞儀が始まり、その間ずうっと日本語で話されるのには、身がすくんだ。

「さあ、行きましょう、お母さん」と、母の袖を引きながら、私は話の邪魔をした。3

1941年10月、ワシントン・ミドルスクールに通うヘンリーの隣の席に新入生がやってきました。すでにヨーロッパでは戦争がはじまっていました。ある時、自分史を書く宿題があり、クラスで発表することになりました。隣の席の新入生の家族はポーランド系のユダヤ人で彼は率直にドイツ軍によるどんな迫害がおこっているか、自分の家族のこと、イギリス経由で苦労してアメリカに逃げて来たことを話し、ヘンリーに強い印象を残しました。4

日米関係が悪化しはじめた1941年初頭、ルーズベルト大統領はジャーナリストのジョン・フランクリン・カーターに西海岸在住日系人のアメリカに対する忠誠心の調査を依頼しました。カーターが雇った数人の調査員の一人がデトロイトの実業家、カーティス・B・マンソンでした。マンソンは10月から11月にかけて実際に西海岸におもむき、連邦捜査局や海軍の諜報部から情報を得るだけでなく、日系アメリカ人や日系アメリカ人を知っている人々をインタビューしてレポートをまとめました。真珠湾攻撃のちょうど一ヶ月前のことです。その結論は、「日系アメリカ人はアメリカに対して忠実で、脅威になるものではない」というものでした。5

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注釈

1. Densho (伝承):日系アメリカレガシープロジェクトは一九九六年、日系三世のトム・イケダにより設立された非営利団体。第二次世界大戦中に不当に収容所におくられた日系アメリカ人の証言を、彼らの記憶が消えさる前に、保存し、歴史的な写真、資料、先生用教材とともに、オンラインで公開しています。伝承のインタビューは話す方の表情もみえ、実際にお話を伺っているような魅力があります。http://www.densho.org

2. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

ヘンリーがプロパガンダナイズされたというのは、移民が早くアメリカの生活に慣れるように、英語やアメリカの文化を教えていたアメリカナイゼーション教育をうのみにしていたことを指します。学校でのプログラムが功を奏すれば奏する程、子どもたちは、日本の文化を捨てざるを得なかったのです。この弊害に気付き、現在ではアメリカ単一文化から複数の文化を大切にする教育に変わって来ています。

3. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

4. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

5. http://encyclopedia.densho.org/Munson_Report/  

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号(2013年4月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

子どもたち 学校 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所
このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。

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執筆者について

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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