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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/2/6/carnival-to-nihon-imin-2/

カーニバルと日本移民 ~異文化がブラジル民俗に~ その2

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初めて日本移民がテーマに

カーニバルと距離を置いてきた日本移民が、初めてパレードのテーマに選ばれたのは1983年、サンパウロ市のエスコーラ「バロッカ・ゾナ・スル」だ。当時は最上位のスペシャル・グループで「移民75周年または日出ずる国」をテーマ曲にパレードし、10チーム中の6位に食い込んだ。当時はカーニバルの時だけチラデンテス大通りを塞いで、サンバ会場(サンボードロモ)として使った。

1983年のバロッカ・ゾナ・スルの日系人アーラ(隊)の様子。左が〃キッコ〃、右は彼の妻(本人提供)

その時に中心になって活躍したのが通称〃キッコ〃(赤嶺清幸、03年取材当時45歳、沖縄県出身)だ。7歳で家族と共に移住した戦後の子供移民だ。

キッコは当時の日伯毎日新聞のポ語編集長・木村ウィリアンから「一緒に日本移民のカーニバルをやろうよ」と誘われ、小川フェリシア・楠野隆夫夫妻らと一緒に駈けずりまわり、日系人300人を集めたアーラ(隊)を組織した。これが本格的な〝日本移民サンバ〟の始まりとなった。

経済的問題から、キッコは1989年に日本にデカセギに行き、今では「ブラジルタウン」として有名な群馬県大泉町で1991年からサンバ・パレードが始まった時、キッコは本場仕込のサンバ・ノ・ペ(サンバ独特のステップ)を披露して盛り上げ、94年にはサンバ隊の歌手まで務めた。

実は83年に、日本移民をテーマにした山車「笠戸丸(第一回移民船)に乗った神楽」も登場していた。スペシャル・グループから数えて4つ下の第4カテゴリーの「フロール・ダ・ペーニャ」は、日本移民をテーマにしていた訳ではないが、当時ブラジル広島神楽保存会会長だった故・細川晃央さんが神楽をサンバと一緒にやりたいとの企画を持ち込み実現したが、最下位の一つ上9位で終わった。

移民75周年のフロール・ダ・ペーニャに出た神楽隊を載せた笠戸丸の山車
(当時ブラジル広島神楽保存会会長だった故・細川晃央さん提供)


ブラジル文化の仲間入り

その次は1998年の日本移民90周年に、スペシャル・グループのエスコーラ「バイバイ」が日伯文化統合を掲げた「万歳!バイバイ」という曲で見事優勝をかっさらった。同エスコーラは以来4年連続優勝する快挙を成し遂げた。それぐらいパレードの東洋的デザインの大成功のインパクトは強かった。


バイバイが見事優勝を飾った移民百周年パレードの様子

日本移民百周年の2008年は、サンパウロのスペシャル・グループ「ウニードス・ダ・ビラ・マリア」が見事なパレードを繰り広げ、3位になった。百年間に培われた多様な符号が随所に織り込まれ、実に見ごたえのあるパレードを展開した。

移民百周年の時のビラ・マリアのパレートの先頭部分

リオの同グループでも「ポルト・ダ・ペドラ」が健闘したが、残念ながらブービー賞の11位で終わった。とはいえ、世界的に有名なブラジルのカーニバルで、日本移民百周年がサンパウロとリオの二都で同時に祝われたこと自体が画期的だった。

2008年にはアマゾン河中域のマナウス、マット・グロッソ州、サンタカタリーナ州でも一部のエスコーラが百周年をテーマにした。出色なのは、日系人が多いことで知られるサンパウロ市近郊のモジ・ダス・クルーゼス市では、カーニバル全体の共通テーマに100周年が選ばれ、出場10チーム全てが日本移民について歌い、パレードを繰り広げたことだ。

リオが影響の広さを示すとすれば、モジの例は日本移民の浸透度の深さを示すものだろう。

2015年2月16日深夜には日本ブラジル外交樹立120周年をテーマにして、サンパウロのスペシャル・グループ「アギア・デ・オウロ」がパレードを行う。過去2年連続で3位という実力を持つチームであり、出来次第では十分に優勝が狙えるとの前評判だ。

井上ナターリアゆかりさんと祖母あきよさん(サンパウロ市のサンバ会場で練習の折りに撮影、本人提供)

アギアで女性ダンサーの最高位ライニャ(女王)に継ぐともいえるエンバイシャトリス(外交親善妃)役を担うのは、井上ナターリアゆかりさん(28)だ。多忙な両親に代わって、佐賀県出身の祖母に育てられ、日本語もでき、日本食が大好きな三世だ。

2012年にレコルデTV局のリアリティショー番組「ファゼンダ・デ・ヴェロン(夏の大農場)」に登場して人気を博し、昨年9月にブラジル版プレイボーイの表紙を飾った今売り出し中の日系芸能人だ。


ブラジルの民俗になった日本移民

カーニバルのパレードは、一年にわたる綿密な計画と練習によって丹念に作られたドラマが、4000市民が参加する約1時間のパレードによって表現される「行進するオペラ」と言っていい。

それぞれの山車や衣装には、その年のテーマに関係するシンボルが散りばめられ、歌詞の内容はもちろん、全体として一つのストーリーを表現するようになっており、それが約9項目に分かれて審査される。

そのような庶民が支えるブラジル独自の文化「カーニバル」において、日本移民はすでに定番テーマといえる。同様のことはイタリア移民などにも言える。日本移民百周年で3位になった「ビラ・マリア」は、2013年に韓国移民50周年をテーマにし、「バイバイ」が優勝した時のカルナヴァレスコ(総合演出家)シッコ・スピノーザを据えて万全を期したが、結果的に最下位となり2部に降格してしまった。移民ネタは審査員の評価の読みが難しい。

サンバという歴史的文脈を紐解けば、日本移民がテーマとして扱われて高い評価を得てきたことは、最も保守的な層から「自国の民俗」もしくは「近代史」の一部として認められたことを意味している。

リオやサンパウロのパレードの様子は、グローボTV局の衛星中継によって、世界の数百万人の目に触れられた。世界から見ても、日本移民は「ブラジルの民俗」となったといえるのではないだろうか。

最近ブラジルのマスコミが浅草サンバカーニバルについて「世界で2番目に大きなサンバカーニバル」と表現するようになった。今回のアギアではテーマ曲自体に「Asakusa」という単語が入っており、わざわざ小口未来さん(おぐち・みく、33、神奈川)を呼んで、マドリンニャ・ダ・バテリア役を任せた。

グローバリゼーションという大きな文脈の中で、地球の反対側にある両国の文化が移民を軸にして混ざり合う現象が加速しているのかもしれない。

浅草の常連チーム「サウーデ」から参加した小口未来さん

 

© 2015 Masayuki Fukasawa

ブラジル カーニバル コミュニティ 文化 フェスティバル 祭り サンバ(ダンス)
執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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