ディスカバー・ニッケイ

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第一章 立ち退きまで (3)

真珠湾攻撃(写真:アメリカ国立公文書記録管理局所蔵)

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3. 真珠湾攻撃とその波紋 <1941年12月7日 – 1942年春>

1941年(昭和16年)12月7日、日曜日。「日本軍が、パールハーバーを攻撃しました。…… アメリカ艦隊の損害は甚大です。海岸一帯に火災が広がっています……」とひっきりなしに繰り返すラジオの臨時ニュースで西海岸に住む多くの日系人は真珠湾攻撃を知りました。1

次はライブラリー・ジャーナル誌(1942年6月号)にロサンゼルス図書館児童室司書、ゼーダ・テイラーの書いた記事の中に表れるブリードの手紙の一部です。

14年間、ひとつのコミュニティの児童図書室で仕事をしてきたことで、わたくしは子どもたちと強い友情を育む機会に恵まれました。その間に七つだった男の子が二十一歳の若者になり、五つだった女の子が十九歳の若い女性になりました。その間、ただ側にいただけのわたくしも、彼らの強靭さ、若さ、勇気に、あふれる誇りを感じています。2 

12月7日はだれもがショックで頭が真っ白になった日でした。でも、日系の子どもたちは、世界が音を立てて崩壊したのと同じぐらいのショックを受けたでしょう。3 

ヨシコの家族は、教会から帰って家でお昼を食べていた時に、ラジオの臨時ニュースでしりました。家族はみんな半信半疑で、もし本当だとしてもただ一部の狂信者がやったことで、まさかこれが戦争のきっかけになるとは思いもしませんでした。午後、ヨシコは図書館にでかけます。

実のところ、私はこの奇異なニュースよりも、間近に迫った大学での最終試験にもっと心を奪われており、図書館へ勉強に出かけていった。図書館に着くと、いくつかの仲間に分かれた二世の学生たちが、この衝撃的な出来事を心配そうに論じ合っているのが見られた。みんなの意見では、ただの突発的な出来事にすぎないということになり、やがて注意を書物の方へ向け直した。私は、真珠湾攻撃については、それ以上、何も考えもせず、午後5時まで図書館にいた。

家に戻ると、家のなかは異様な静けさで満たされていた。見知らぬ男が居間に座っており、父の姿は見えなかった。何十人もの他の日本人の場合と同様に、FBI(連邦捜査局)の係官がやってきて父を連れていったのだ。…… やっと母と姉の恵子と私だけになった。母が食事の支度をし、皆で食卓についたが、だれも何も食べる気にはならなかった。父がいないということで、何かがどこかで違ってしまっていた。心のなかに重い黒い石のようにうずくまっている怖れを、だれも自分から口にしようとはしなかった。

「ベランダの明りをつけたままにして、網戸の掛け金もはずしておきましょうよ。お父さまが、今晩遅く帰ってみえるかもしれないから」と、母が願いを込めて言った。

だが、翌朝、ベランダの明りはついたままであり、父の居所はだれにも思い当たらなかった。4

ラジオからながれる日本軍によるパールハーバー攻撃のニュースを複雑な思いで聞く日系人家族。
(『無題』ヘンリー杉本。マデレイン・スギモト、ナオミ・タガワ氏寄贈。全米日系人博物館所蔵 [92.97.105])    

ヘンリーも家でニュースを聞きました。

真珠湾攻撃のニュースは午後3時頃、聞きました。当時、兄はアマチュア無線に凝っていましたが、あ〜ぁ、もうできないなと思いました。間もなく、ノビ・シゲハラが家に駆けて来て、「父ちゃん、とられた!」って言ったんです。僕たちが「父ちゃん、とられたって、どういうこと?」と聞き返したら、「あいつらがやって来て、父ちゃんを拘留して、車に乗せてどっかにつれてっちゃった」って。これを聞いた父は、あわててスーツケースの用意を始めていました。次に、電話が鳴りました。兄と同じアマチュア無線をするジョージ・セキヤからで、「全部もってっちゃった。僕の無線の機械、全部。僕の持っていたもの全部」って。それからきっかり15分後、だれかが玄関のドアをたたく音がしました。で、兄の無線の機械は持っていかれたんですが、幸い父は無事でした。5

連邦捜査官は一刻もむだにせず、ヨシコやノビの父親のように日本と緊密な関係があるとされるあらゆる者を逮捕していきました。日系人コミュニティの指導者、日本語教師、牧師、僧侶、新聞記者、日本企業に勤める人…… ジーンの父親もその一人でした。ジーンはその時の気持ちをこう表しています。

1941年、12月7日、日本とアメリカの戦争が始まった。…… その夜、12月8日の朝早く、FBI(連邦捜査局)の職員が二人やってきて、父を逮捕して連れ去った。アメリカ西海岸に住む日系人リーダー数百人の名簿が作成されていて、そこに父の名もあり、開戦後24時間以内に逮捕される手筈になっていたのだ。明らかにFBIは準備をととのえ、戦端が開かれたらただちに行動する態勢をとっていた。父も他の人も犯罪の前歴は何もない。父が逮捕され、身柄を拘束されたのは、日系人社会で指導者的立場にいたからだ。それから約二年間、家族は誰も父にあえなかった。

ぼくは父の逮捕は眠っていて知らなかった。朝になってから姉のホシコに教えてもらった。姉は台所の壁にとりつけてある電話機を指さした。FBIが電話線を切断して帰り、誰にも彼らが来たことを伝えられないようにしてあった。FBIが線を切っていったことは、父の逮捕よりも強い衝撃をぼくに与えた。それはアメリカ政府がぼくたちを、敵と見ている具体的な表れだった。何日もの間、ぼくは切られた電話線が、台所の壁にだらりとぶら下がっているのをぼんやり眺めた。やがて誰かが来て直してくれるまで。

2、3週間して父から手紙が届いた。サンタバーバラ郡立刑務所から出されたもので、のちに父が話したところでは、刑務所ではパンと水しか与えてもらえず、数日にわたって訊問された。みなやがて処刑されるのだと考えた。父も手紙には書いていなかったが、家族には二度と会えないと覚悟していたようである。6

ヘンリーの新しい友達はアメリカが気にいっていて、アメリカがヨーロッパやアジアと戦争しないように願っていました。真珠湾攻撃のあった次の日、学校に行くと「これからいろんな事がおこるよ」と真面目な顔でヘンリーにいいました。でも、中学生のヘンリーには事の重大さは……7

新しい友達の予言はあたっていました。いろいろな事がおこりました。苦労をした一世も落ち着いた生活をしていた頃でしたが、真珠湾攻撃の後、生活は一変します。まず、一世のビジネスライセンスが無効になり、銀行にあずけてあった預金が凍結されます。日本学校の校長先生が逮捕されたため、学校は無期休校です。日系人にたいする暴行事件もありました。年が明けてすぐ、シアトルの公立小学校で事務をとっていた26人の日系職員が、父兄の圧力により、辞職においこまれます。駅で赤帽をしていた日系人もいつの間にか、フィリピン人に変わっています。カリフォルニアでも34人の日系公務員が解雇されました。日本に対する怒りが日系人にむけられました。日系人もアメリカの軍隊に志願したり、戦争に協力するために国防債券をかったり、献血をしたりしたのですが、世論をしずめる効果はありませんでした。

しずめるどころか、戦争の狂気とかした世論をあおいだのが、軍、政治家、それにマスコミでした。新聞はうわさや推測を事実であるかのように書き続けましたし、12月15日には海軍長官のフランク・ノックスは、ハワイにいる日系人が日本の真珠湾奇襲攻撃を手助けした、日系人のあいだに大規模なスパイ組織があると全くでたらめなことを言い始めます。しかし、日系人社会は静かです。その「大規模なスパイ組織」の活動は何もありません。まあ、組織もなにもないのですから、行動もあるはずはないのですが。すると、「西海岸に住む日系人のスパイ活動がないという事自体が、彼らが秘密裏に次の奇襲を計画している証拠だ」という人がでてきます。当時カリフォルニア州地方検事だったアール・ウォーレンもそういった一人です。こんな議論で納得させられたのが、スティムソン陸軍長官や大統領。これが、日系人強制立ち退き、強制収容につながります。

日系人強制立ち退き、強制収容に反対した政府高官もいたことにはいました。連邦捜査局長官のジョン・エドガー・フーヴァーです。問題のありそうな日系人は真珠湾攻撃後すべて投獄してあるので、他の日系人の強制立ち退き、強制収容の必要はない。強制立ち退き、強制収容はただ世論と政治的圧力に負けたからであって、実際のデータに基づくものではないとしています。8

2月9、西海岸の日系人には午後八時から午前六時までの夜間外出禁止令がでていましたが、ヘンリーは平気で夜おそくに近くのイエスラー図書館分室から歩いて家まで帰っていました。一応、中国人の友達のアルがくれたチャイナ・バッジをズボンのポケットにしのばせて。「チャイナ・バッジって、丸いバッジで周りに模様が書いてあって、真ん中に『中国』って書いてあるんです。アルがいうのには、僕たちは背格好も同じだし、顔も似ているし、捕まったらこのバッジを見せればいい。名前は僕の名前をつかっていいよって」10 

2月中旬、シアーズ校長先生が日系の子どもたちだけの集会をひらきました。その時のヘンリーのレポートです。

校長先生の心配は僕たちの身に危害が及ぶことでした。「もし、学校の行き帰りに何かあったら、すぐ私に直接報告するように」と、僕たちの安全を守る積極的な態度を示してくださいました。夜間外出禁止令は午後八時から午前六時までなので、朝五時とか五時半始まりのクラブ活動に参加している人は、顧問の先生と話して、時間変更してもらってともおっしゃいました。それから、「何が起ころうと、将来君たちが勉強を続けられるように、君たちの記録はちゃんととっておくから」と。今から考えると、校長先生は将来を見通していらしたようです。が、その時の僕らには、馬の耳に念仏。先生の言葉は僕らの耳にたどり着くなり、中には入らず、そのまま外に跳ね返っていっていました。この集会があってすぐ、大統領行政命令が……11

大統領行政命令9066号

「われわれはどんな脅威にも、どんな危険にさらされていても、われわれの祖先が権利章典のなかに構築してくれた自由を放棄するものではない。」と、真珠湾攻撃の一週間後でしたか、権利章典150周年記念式典で、声たかだかに演説したルーズベルト大統領でした。しかしその約2ヶ月後、1942年2月19日には、大統領行政命令9066号に署名し、「裁判、事情徴収なしに、軍部がいかなる地区からも民間人を隔離できる権限」12 を与えました。

これで、西海岸を軍事地域に指定し、陸軍省と西部防衛司令官のジョン・ドウィット陸軍中尉に、軍事上の必要性があれば、日系人の立ち退きを実行する権限を与えてしまいました。ドウィット陸軍中尉は以前から、日本と戦争になれば西海岸にいる日系人が日本に手助けする可能性は十分あると確信していました。ドウィット陸軍中尉の考えは、マンソン・レポートでも変えることはできませんでした。 

こうして陸軍が権限を持つ事になり、忠誠心を持たない者がいるかもしれないという理由で、11万人以上の人々を家から立ち退かせ、行き先も告げることなく移動させられた。彼らのうちの誰一人として、罪を犯して裁判にかけられたり、有罪に処せられたことのある者はいなかった。70パーセントはアメリカ市民であったにもかかわらず、市民としての権利は無視された。ただ、彼らが日本人の血筋を持つために罪があるとされたのだ。13

ヨシオ・ナカムラの証言14

歴史の先生が、心配するな、ヨシオ、おまえはアメリカ人だぞ。合衆国憲法が強制移住等許すはずがないと言ってくれました。次の週、執行令が来た事を告げると、先生は呆然とされていました。

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注釈:

1. 長江好道著、「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリスト浅野七之助の証言」岩手日報社 1987

2. 前掲  War Children on the Pacific: A Symposium Article.

3. 前掲「親愛なるブリードさま」

4. 前掲「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」

5. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

6. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」

7. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

8. Takami, David A. Divided Destiny: A History of Japanese Americans in Seattle. Seattle: University of Washington Press, 2009.

9. ヘンリーはここで2月と言っていますが、シアトルに夜間外出禁止令がでたのは、西部防衛司令官ジョン・ドウィット陸軍中尉が、カリフォルニア、ワシントン、オレゴン各州の西側半分とアリゾナ州の一部を軍事地域と決め、その地域内を午後八時から午前六時まで夜間外出禁止とした、布告第一号の発令された3月2日とみるのが妥当だと思います。この布告で軍事地域からの自主移動もすすめています。ドウィット陸軍中尉は3月24日には、第一号の夜間外出禁止令をもっと厳格にした夜間外出禁止令を発令します。ここはインタビューを基にしていますので、ヘンリーの話したままにしておきます。

10. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

チャイナバッジについても人、年齢、バッジをつけている人との関係性によって感じ方はちがい「傷ついた」(竹沢泰子著「日系アメリカ人のエスニシティ」)というものも、「……日本人でないことを強調していたのが、ひどく腹立たしかった。」(伊藤一男著「アメリカ春秋八十年-シアトル日系人創立三十周年記念誌-」)というものもあります。

11. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

12. Densho (伝承):日系アメリカレガシープロジェクトの日米関連年表による。

13. 前掲「親愛なるブリードさま」

14. 1981年に戦時民間人転住抑留調査委員会(CWRIC)が全米でおこなった公聴会での証言。
 CWRIC Testimony of Yoshio Nakamura, Los Angeles, Aug. 6, 1981
 前掲「親愛なるブリードさま」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号(2013年4月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

子ども 真珠湾攻撃、ハワイ、1941年 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所
このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。

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執筆者について

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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