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伝統的刺青を広めたい ~在米日本人彫師、彫巴さん~ その1

ここに一冊の本があります。「MonmonCats」と題された英語の本です。さまざまな日本的デザインの刺青を施された猫の絵が118ページにわたって展開されています。著者は、現在カリフォルニア州サンノゼで刺青の彫師として活躍している三重県出身の彫巴(ほりとも)さん。「もんもん(紋紋)」が刺青の別称であることを知らない人は、「何の本?」と訝しがるかもしれませんが、この本には彫巴さんの、彫師としての信条が詰まっていると言っていいでしょう。出版元は、彫巴さんが現在在籍しているタトゥー・スタジオ「State of Grace」、出版は2013年。彫巴さんが渡米して6年後のことですが、彫巴さんはどうしてこの本を出版するようになったのか。そこに、彫巴さんが長年抱いてきた「願い」や「夢」をうかがうことができるようです。


「刺青と猫」

本の前書で、彫巴さんは、猫が有史以来どのような待遇を人間から受けてきたかを説明しています。猫は十二支から外され、化け猫や魔女の連れ添いとして長い間、洋の東西を問わず、人間から疎まれてきました。仏教でも猫は嫌われているようで、釈迦涅槃図には多くの動物が描かれているのに、猫はいない場合が多いのです。半面、近代になってからは、招き猫として幸運を呼び込む縁起物として、また、穀物や蚕を鼠の被害から守るため重宝されたりもしてきたのですが、彫巴さんはそうした猫に対する人々の対応に、刺青が社会一般から受けてきた対応を重ねるのでした。

「人間が持つ猫に対する相反する感情と、日本社会における現在の刺青に対する人々が持つ感情とは、通じるところがあるのではないでしょうか。この考えから、猫と刺青は、私にとって非常に相性の良いものとなっています」

彫巴さんは刺青のデザイナーとして、江戸末期から明治にかけて活躍した歌川国芳の猫に絵に大きな影響を受けたと言いますが、彫巴さんが日本の伝統的な刺青やそのデザインに強い興味を抱くようになったのは、もうだいぶ前の話、日本で仕事をしていた時のことでした。


刺青との出会い

彫巴さんが初めて刺青と出会ったのは、もう25年ほど前のことです。調理師を目指していたのですが、その世界を知るにつけて、これは自分の天職ではないと悟り辞職。次になにをするかはっきりした考えもないまま、アルバイトをしながら、時間があるときにはサーフィンにうつつを抜かしていました。サーフィン仲間で刺青を入れていた人もいたのですが、最初はただ「かっこいいな」と思ったぐらい。しかし次第に、自分も刺青を入れてみたいという気持ちが湧いてきました。ウエスタン・スタイルの刺青です。それで、地元の三重県内で彫師を探したのですが、当時はなかなかウエスタン・スタイルの彫師はいなかったのが現状でした。

そんな時、友人が、名古屋で仕事をしていた彫師を紹介してくれました。ブラジル帰りの人で、もともとは日本でエンジニア関係の仕事をしていたのですが、辞めてまずアメリカに渡り、その後、中米を転々としたあと南米に行き、ブラジルで刺青を勉強したという人でした。長髪で、ヒッピーのようなタイダイのズボンをはいており、「面白そうな人」と思ったというのが最初の印象です。

 そして、彼に刺青を入れてもらおうということになり、名古屋のスタジオに行きました。アメリカのタトゥー・マガジンが揃っています。それを目にした時の興奮を今でも憶えています。


初のタトゥー

タトゥーを入れることに、迷いはなかったといいます。「若かったし、わりと刹那的に生きていましたし。そんなに長生きするつもりないよ、みたいに考えていました」

まだ人生が見えてきていなかったこともあります。だから、仕事をどうするかも真剣に考えていないというのが現状でした。

しかし、一つの事故が心を一変します。サーフィンでの事故でした。台風で大波が立っていたのですが、海に出たのです。それで大怪我をしました。

「それ以来、大波が怖くなりました。強がりだったんだなと気づいたんです。そのあたりから、もっと真面目に将来のことを考えるようになり、刹那主義を改めるきっかけになりました」 

それで、このままの生活ではためだと思い、仕事のこと、将来のことを考えるように。そこで出てきたのが、彫師の道でした。


彫師を目指す

名古屋で修行を始めたころ。1993年か94年

彫師としての歩みは、まず、件のブラジル帰りの彫師が名古屋で、日本で初めてのストリート・タトゥーショップを開いたので、そこで見習いとして修業を始めたのが最初です。1993年のことでした。

もちろん、不安はありました。しかし、それ以上に、彫師になりたいという気持ちの方が強く、その気持ちで動いていました。両親には当初内緒でしたが、父親は薄々気づいていたようです。頑固な大工だった父親は、刺青をした職人と一緒に仕事をしていたこともあり、2年ほどして打ち明けた時も「お前の人生だから」と基本的に承認。「当時、泣いて反対した母親は、昔ほどではないが未だに完全には認めていないようです」と、彫巴さんは言います。

それから4年後の97年に東京に拠点を移し、原宿の竹下通りにあるスタジオと、中目黒にある友人の彫師のスタジオとを掛け持ちで仕事。翌98年には大阪に移り、新しいスタジオを立ち上げに参加して、そこのメインの彫師として活動しました。

その一方で、94年から、海外のタトゥー・コンベンションにもたびたびでかけています。米国ではサンディエゴ、フィラデルフィア、シアトル、そしてヨーロッパのオランダなどです。すでに欧米諸国ではタトゥー・ブームが始まっていて、現在のような大きなコンベンションが開かれるようになっていました。96年には、当時タトゥーの「聖地」とされていたサンフランシスコのタトゥー・ショップで、ゲストとして仕事もしました。99年にはスペインのコンベンションに参加。こうして、海外でのタトゥーの状況もつぶさに見ることができました。

アムステルダムのタトゥーコンベンションで。95年と思われる


隆大彫さんとの出会い

サンノゼのタトゥー・スタジオで、隆大彫さんと

こうして、名古屋、東京、大阪と拠点を移したのですが、それぞれのショップでの違いも含め、「一つひとつ、すごく内容が濃いんです。一つひとつ話していたら、それこそ長い話になります」。そのころ学んだのは主に、当時日本では珍しい欧米スタイルのタトゥーでしたが、それぞれの場所でいろいろなものを学び、吸収した彫巴さんの述懐です。しかし、現在働いているサンノゼのタトゥー・スタジオ「State of Grace」のオーナーである「隆大彫(りゅうだいぼり)」(旧名・彫たか)さんとの出会いなくしては、現在の彫巴さんはなかったと言ってもいいでしょう。しかし、それはまだ先の話です。

彫巴さんが、アメリカから刺青の修行に来ていた隆大彫さんに初めて会ったのは97年のことでした。彫巴さんが働いていた原宿のスタジオに、隆大彫さんが訪れたことがあったのですが、そのころはまだそれだけのことでした。

2001年、彫巴さんは日本の伝統的な刺青を本格的に勉強しようと、大阪から横浜に移り、そこで活躍していた彫師について勉強を始めます。たまたまそこでは隆大彫さんも学んでいました。こうして「兄弟弟子」として、交流を深めていきます。それに、たまたま「北村」という苗字が一緒だったことも、何かの縁を感じさせました。

実は、日本の伝統的な刺青への関心は名古屋で修業していたころはそれほど持っていませんでした。しかし、彫師としてのキャリアを積んでいくうちに、次第にその関心が強くなり、東京から大阪に拠点を移したころには、すでに独自に日本の刺青も勉強していたのですが、本格的に学ぶために横浜に拠点を移しました。手彫りの修業も大阪で始めていたのですが、横浜に移って、本格化しました。

大阪のタトゥー・スタジオで手彫りを独自で始めた頃

彫巴さんが渡米を目指すようになったのも、実は名古屋にいたころのことでした。名古屋で欧米スタイルのタトゥーを学ぶとともに、欧米のコンベンションで目にしたタトゥー・シーンに衝撃を受け、やはり欧米スタイルを学ぶのなら本場であるアメリカで仕事をするのが一番だと思うようになったのです。95、6年のことでした。しかし、問題はビザ。いろいろと調べたのですが、学歴に加え、まだ彫師としてのキャリアも浅く、彫巴さんが取得できそうなビザはありません。

それで、渡米をあきらめ、日本でもっと修業を積むために名古屋から東京に出たのでした。そして、先に触れた日本の伝統的な刺青への関心が強まるにつれ、東京から大阪へ、そして横浜へと拠点を移したのです。

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© 2015 Yukikazu Nagashima

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