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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(2)

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忠誠登録その後

強制収容所の人間模様。この絵の裏側にヘンリー杉本は「この試練に耐え忍ばん」と日本語で書き残しています。(マデレイン・スギモト、ナオミ・タガワ氏寄贈。全米日系人博物館所蔵 [92.97.141]) 

忠誠登録の目的は、アメリカに忠誠である者とそうでないものを分け、忠誠が確認されたものは、兵役につくか、仕事や学業で早くアメリカの一般社会に戻るように促し、不忠誠とされたものは隔離することでした。しかし、よく考えずに作成された質問表は、収容所内に不安と混乱をまねいたため、27番目の質問「二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか」を、女性に対しては「陸軍の看護部隊、及び婦人陸軍部隊で働く意志があるかどうか」と変え、28番目の質問「アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を『破棄』するか」については、アメリカ国籍も与えられないまま、日本への忠誠を否定すれば、国籍喪失の憂き目にあうと心配する一世のために、「米国の法律を遵守し、いかなる形でも、米国の戦争遂行努力を妨害するような行動をとらないことを誓約するか」に修正しました。

結果は、17歳以上の7万8000の日系人のうち、およそ6,700人が、「忠誠心なし」に分類され、約2,000人が条件をつけた回答をしています。登録をした83%にあたる6万5000人以上が、忠誠と認められています。


ノーノーボーイ

27番目と28番目のどちらの質問にもノーと答えた、米国に不忠誠だとされた若者がノーノーボーイと呼ばれました。主に日本で教育をうけた帰米二世です。政府はノーノーボーイの比率が一番高かったツールレイクを、隔離収容所として使う事に決め、警備をいっそう強化し、各収容所から日本への帰国希望者を含む、不忠誠者とされる者をすべてツールレイクに集めました。1

母親が帰国希望だったために、ペギー・アヤコ・ナガタは、10歳の時に、家族でミニドカからツールレイクにやってきました。日本帰国組の多いツールレイクでは、日系人自費による日本語学校が容認され、先生自らがガリ版刷りで教科書を作っています。アヤコの当時の教科書を見せてもらいましたが、国語、算数の教科書にまじって、日本に帰って困らないようにお作法の教科書もあり、アヤコの自筆で永田綾子ときれいな字で小さく名前が書いてありました。その頃のようすをアヤコはこう語ります。

毎朝学校が始まる前、校庭で体操をしてから教室に入ります。先生が教室に見えると、一斉に立ちお辞儀をしてからクラスが始まりました。授業は日本の地理、国語、お行儀、算数と、すべての教科を日本語で教わりました。交替で教室の掃除もしましたよ。日本みたいでしょう。女の子の髪はおかっぱか、わたしみたいにお下げで、男の子はすごく短いイガグリ頭でした。子ども会にも入っていました。みんなで早起きして太陽が昇るまえに集合して、そこで昇る太陽にむかってみんなでお辞儀をするんです。私にはとても日本的なことに思えました。2

帰米二世の若者は報国奉仕団を結成。留学中にツールレイクに収容された白井昇は、その活動を、著書「カリフォルニア日系人強制収容所」の中でこう伝えています。

男子は、全員丸坊主頭に髪を刈り、灰色のスウェットシャツをユニフォームとした。そして女子青年団員はピッグ・テールといって、頭の真中で髪を左右に分け、それを編んで両肩前に垂らすことを規制した。そして、男子女子青年団員は、ともに日の丸のマークを染め抜いた鉢巻きを結んでいたので、この青年団のことを「ハチマキ組」とか、「坊主組」などとも呼んだ。…… 午前五時から広場では1,200名のものが、まず日本の戦勝祈願と皇居遙排式を行い、次いで勇ましく国民体操を行った。それが終わると、一同は四列縦隊をつくって、所内ところかまわず、進軍ラッパを吹き鳴らしながらワッショイ、ワッショイと隅々まで駆け足行進を行った。3

これらの過激集団と収容所長との対立、また親日派と親米派とのぶつかり合いが多かったツールレイクでは、暴動やストライキが何度も起き、一度は、所内の治安が落ち着くまでの間、軍の管轄下におかれています。収容所内には留置所もありました。あるとき、アヤコの父親の知人が予告もなくキッチンの仕事を解雇され、父親は、その不当性を食事の時にみんなに訴えました。すると翌日、それを管理局に密告した人がいたようで、アヤコの父親は捕まり、3ヶ月も留置所にいれられています。そんな不穏な環境でしたが、アヤコは子どもたちにはどんなことがあっても、たちまち元気をとりもどす力があるようだったと語っています。4


条件付き回答

はじめてのアイススケートを楽しんだビリー(本シリーズ第三章)の写真を撮った、ビル・マンボーと妻のメアリーは、条件付きの回答をしています。エリック・L・ミューラーが公文書から掘り起こした興味深いデータによると、ビルは配偶者の国籍を聞かれて「アメリカ人?」とわざわざ疑問符を付けて回答し、国籍離脱願いを出したかとの問には「まだ」、アメリカへの忠誠を誓い、日本への忠誠を否認するかには、「もし、すべての[市民としての]権利が復元されたら……」と答えています。

メアリーも国籍を問われて「今の所は、米国。でも、そのことについては疑問に思っている」、配偶者の人種を聞かれて、「日本人。本人になんの落度があったわけではなく。我々の人種に誇りを持っています」と。「子供を日本に送ったことがあるか」との問いには、もうこんなくだらない質問はやめてもらいたいと思ったのか、「ノー、何のために?」とぶっきらぼうに書き込んでいます。陸軍看護部隊、または婦人陸軍部隊に入隊の意志があるかとの質問には、「イエス、でも正看護婦の資格をもつ私の友人が応募した際、なぜ入隊を拒否されたのですか? たくさんの看護婦が必要な時だったのに」と真珠湾攻撃後、二世を急に4-C(敵性外国人)の分類に入れ、入隊希望をすべて却下していた軍への反発を表明しています。アメリカへの忠誠を誓うかとの28番目の質問には「イエス」と答えた後、少ししかないスペースに「私は生まれながらにアメリカ人です」とも書き入れて、こんなわかりきったことを改めて聞かれたことへの不満を表しています。

このように条件付きの回答をした二人は、10月5日に収容所内で行われた聴聞会に別々に呼び出されています。ビルは、尋問にあたった係官にストレートに怒りの気持ちをぶつけ、「カリフォルニアからの強制立ち退き以来、アメリカ政府に対していい感情はもっていない。…… 市民であることからしても不当な扱いだと思っている」と言い、兵役に関しては、家族を有刺鉄線の囲いの中に閉じ込めたままで、軍隊に入るなんて考えられないとし、「まず、家族を家に戻し、それからだ」と語っています。

一方、メアリーの聴聞が行われた部屋では、係官がもう一度メアリーの書いた28番目の質問の答えを読み上げ、再びメアリーにアメリカへの忠誠を誓うかと聞き、メアリーは「はい、もちろん。なんと言っても、ここで生まれたのですし」と答えた上で、「わたしは、ちょっと短気な性格で、言わなくてもいいことを言ったりすることがあるんです」と付け加えています。「選べるとして、アメリカと日本とどちらの市民権を選びますか?」と問われて「今持っている方です。あちらの国のことは何も知りませんし、ここで生まれ育ちました。これまでも白人のなかで暮らしてきましたし、日本に行きたい理由は何もありません」と答えています。

転住局本部の結論は、ビルは「はっきり物をいう人で、強制立ち退きについて苦々しく思っているものの、以前ほどでもない」とし、メアリーは「とてもアメリカ化していて、自分のアメリカへの忠誠心が疑われていることに腹を立てていて、彼女の忠誠心問題の答えは、公民権への抗議であって、不忠誠ということではない」として、最終的に二人をアメリカに忠実だと判定しています。しかし、条件付き回答をした多くの人たちは不忠誠とみなされ、ツールレイクの隔離強制収容所に送られました。

第四章(3) >>


注釈:

1. Burton, Jeffery F., et al. Confinement and Ethnicity: An Overview of World War II Japanese American Relocation Sites. Western Archeological and Conservation Center, National Park Service, U.S. Department of the Interior, 1999. 
その時ツールレイクにいた約6,000人の忠誠者は他の収容所へ移されています。しかし、他の収容所に移るより慣れた所の方がいいと残った4,000人の忠誠者もいたため、所内は一時、18,000人以上にふくれあがりました。

2. Peggy Ayako Nagata Tanemura, interview by Yuri Brockett and Jenny Hones, November 21, 2013 at Seattle, WA.

3. 白井昇著「カリフォルニア日系人強制収容所」河出書房新社、1941年

4. Peggy Ayako Nagata Tanemura, interview by Yuri Brockett and Jenny Hones, November 21, 2013 at Seattle, WA.

5. しかし、1943年になると、再び二世を兵役可能な1-Aの分類にもどし、志願兵を募りはじめます。

6. Muller, Eric L. (Ed.). Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2012.

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

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このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。