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日系ズートスーターの忘れられた物語 ~ その2

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WRAは、再定住見込みのある収容者の中から、ヨゴレを排除にすることに余念ありませんでした。収容所からの解放を望む者は、連邦当局に対し、公の場では英語のみを話し、日系人との集団での接触を避け、主流かつ標準的行動と服装を順守することを誓わなければなりませんでした。

ドレープパンツを着てポースをとるジュンイチ・「フリスコ」・ヤマサキ。アリゾナ州ポストン強制収容所にて。(写真:フリスコ・ヤマサキ氏寄贈、全米日系人博物館所蔵 [2000.415.1])

シカゴに再定住した者たちは、到着後すぐ、政府の示す同化指示の厳格性を試しました。WRAの方針に厳格に従う者も居ましたが、新しくなじみの無い土地で、より現実的なアプローチをする者もいました。人恋しくなった二世は、互いに交流するようになりました。また、シカゴでの人種の順位付けを単に把握していないという理由から、多くは白人との交流に消極的でした。人種差別は彼らの不安を煽り、住居や雇用の確保を妨げ、ダンスホールや病院、墓地といった公的施設からも遠ざけました。

不確かな現在を生き、まだ見ぬ未来に目を向けようとする無数の最定住者たちは、WRAの求める米国多数派への立派な「親善大使」としての振る舞いをすぐに放棄しました。連邦政府の意向に反し、より良い職と賃金を求め、多くが無断で職を去りました。政府は、このような行いが全ての日系アメリカ人の「印象を悪くする」ことを恐れました。

ズートスーターの中には、政府による同化指示を公然と無視する者もいました。タダシ・「ブラッキー」・ナカジマは、シカゴでもドレープスーツを着続けただけでなく、公の場で無作法な英語を話し、日本語のスラング表現を使い、ノース・クラーク・ストリートのヨゴレギャング団と付き合い、売春宿に通いました。このような行いは、WRAがかつての収容者たちに思い描いていた統合とは、明らかに異なる様相を呈していました。

スス・カミナカの戦時中の証言は、当時の不穏な空気や不安感の広がりを匂わせています。カミナカは、シカゴで一通りの転職を繰り返した後、二世のダンスパーティや飲酒、性的快楽を求め、徴兵されるまで「遊び回る」ことにしました。一方で、自分自身の深い部分にある、相反する感情を語っています。「もう何者かになるのは無理なんだ。これから何も良いことは無さそうだ。こんな状況はうんざりだし、今やっておくべきことを色々考えるけど、時間を作ってまでやろうという意欲は湧かないね。」

その一方で、カミナカは希望も抱いており、真のアメリカ人として認められることを切望していると告白しています。「一生アメリカに住むつもりだし、一部の白人が何と言おうとアメリカは俺の国だから、国のためには喜んで戦う。少なくとも俺が戦争に行けば役に立つよ。将来楽しみにできることといったらそれくらいかな。」カミナカ等最定住者たちは、ヨゴレもそうでない人も同じように転々とし、政府が嫌う類いの活動で慰めを得ていました。

案の定、日系人再定住調整担当者は、二世の素行の悪さに頭を悩ませました。状況の悪化が懸念される中、1945年9月、日系人グループとその協力者は、「強制収容と再定住に関わる棚上げ問題に取り組む」ため、シカゴ再定住者支援協議会 (CRC)を立ち上げました。CRC立ち上げメンバーの一人であるセツコ・マツナガ・ニシは、彼らの特異かつ困難な状況について詳細に語っています。「家族やコミュニティとの結束に必要な安定化因子」を奪われた二世は、「未来に対する虚無感や社会に居場所のない、はぐれ者のような気持ち」を抱いていると指摘しています。

ニシは、ヨゴレを引き合いに出し、二世の差し迫った状況を強調し、その上で、「リーゼントと『ズートスーツ』姿の二世は珍しくない」と警鐘を鳴らしています。

CRCは、日系人の継続的なシカゴへの転入に伴い、正式な日系アメリカ人コミュニティ団体の立ち上げが急務であると主張しました。最定住者たちは、生活の再開と彼らを誘惑する「不健全な影響」を断ち切り、建設的な活動に向き直るための支援を必要としていました。

CRCリーダーは、再定住の「最終目的」が同化であるという点でWRAに同意しつつ、根本的に異なるアプローチを提案しました。それは、安定し、はぐくみみ育てる社会環境と日系人対象のリクリエーション等活動の整備が、統合にはむしろ効果的であるという考え方でした。さらに、そういった環境の整備は、日系人ではなく、主流機関がその責務を負うべきであると主張しました。

CRCの主張が功を奏し、WRAの再定住に関する方針は見直されることになりました。市の社会福祉事業の傘下団体であるシカゴ社会福祉協議会は、1946年9月、公式にCRCを承認し、1947年の運営資金の半額を提供することに合意しました。その後すぐ、CRCやその他100以上の民族団体の支援を受け、シカゴには活気ある戦後日系アメリカ人コミュニティが姿を現すようになりました。

シカゴの日系コミュニティの立ち上げにおいて、ズートスーターは重要な役割を果たしました。WRAやその関連団体に、再定住者の同化政策に関する厳格な青写真を再考させたのは、彼ら一人一人の力でした。そして、シンボルとして力強いレトリックを呈することで、ズートスーターは日系アメリカ人の代弁者となり、民族団体設立の正当性を呼びかけることができたのです。

日系二世ズートスーターは、日系アメリカ人史ひいてはアメリカ史全体で未だ忘れ去られた存在です。この奇妙な不在状態を、どう説明できるでしょうか?原因の1つとして、第二次大戦から戦後にかけ、「G.I.ジョーとしての二世」が日系コミュニティの表向きの顔として据え置かれていたことが挙げられます。それは、日系コミュニティリーダーの強い意向によるものでした。日系アメリカ人市民同盟は、二世の戦地での活躍を前面に押し出すことに力を注ぎ、日系人の国家への完全な忠義を強調するため、第100歩兵大隊や第442連隊戦闘団の驚異的記録や、軍服姿の二世に注目を集めようとしました。このようなやり方は、日系アメリカ人全体の未来のために必要だったのかもしれませんが、軍人としての日系アメリカ人のヒロイズムが幅広く人々を魅了する一方で、ヨゴレを含めたそれ以外の日系アメリカ人のイメージは締め出され、その他の人々のストーリーを何十年間もおおい隠すことになりました。

ヨゴレやパチュケと呼ばれた人々の行動や考え方は、実は他の二世と何ら変わらなかったでしょう。シカゴの再定住者たちの多く(大多数ではないにしても)が、連邦政府の意向、すなわち日系アメリカ人同胞を避け、「日本的」なものから遠ざかり、白人中流階級にとけ込むように、という指針を無視するか受け流したことは、記憶されるべき重要な事実です。最終的に、経験の多様性を認めることは、より豊かな日系米国史の理解につながり、レイシャル・プロファイリングや戦時中の強制収容が人々にもたらした影響を、幅広く知る手立てとなるのです。


出典注記:

日系アメリカ人ズートスーターに関する主な出典は、第二次世界大戦中シカゴで録音された、チャールズ・キクチによる日系二世再定住者へのライフヒストリーインタビューです。キクチは、カリフォルニア大学日系アメリカ人強制収容と再定住研究(JERS)チームの一員で、チームは、白人と日系二世の社会学研究者により構成されていました。強制収容が明るみに出ると、研究チームは、広範な実地調査を開始しました。キクチのインタビューの逐語記録は、彼の実地調査ノートや日記と共に、カリフォルニア大学バークレー校バンクロフト図書館スペシャルコレクションとカリフォルニア大学ロサンゼルス校ヤングリサーチ図書館スペシャルコレクションで公開されています。また、64名のうち15名のインタビューは、ドロシー・トマス名義の「ザ・サルベージ(カリフォルニア大学出版局 1952年)」で要約版として出版されており、その中にスス・カミナカへのインタビューがあります。(注:スス・カミナカは、キクチが「CH-45, 農学学生」なるインタビュイーに割り当てた仮名。)

このエッセイの執筆にあたり参照したその他の文献は、各収容所発行の新聞(densho.orgで閲覧可能)、ブレザレン教会アーカイブ(イリノイ州エルジン市)の日系アメリカ人強制収容コレクション、シカゴ歴史博物館リサーチコレクションのシカゴ再定住者コレクション、日系アメリカ人支援委員会レガシーセンターアーカイブ(シカゴ市)です。

 

* 当エッセイは、2014年1月25日「ニッケイシカゴ」に掲載されたものを翻訳したものです。

 

© 2014 Ellen D. Wu

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