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強制収容所の体験を語らなかった母が残した写真をもとに収容所生活を描く三世女性

わたしの伯母(母の姉)は、現在90歳近くになるが、広島での原子爆弾体験を約20年前まで、語らなかった。わたしの母の家族は、戦争当時は、広島市に近い呉市で暮らしており、伯母は、1945年8月6日朝、広島駅に停車していた列車の中にいた。戦争体験について、わたしの広島県呉の家族と同じように語りたくない、という傾向が、ロサンゼルスの日系アメリカ人たちの間にもあることに、最近、わたし自身が気がついた。

きっかけは、2014年5月に、ロサンゼルス近郊トーレンス市内にあるエルカミノ大学で開かれた絵画展示会への案内状だった。5月はアジア系アメリカ人をテーマにしようというキャンペーンがアメリカの連邦政府や地方行政の間で行われていて、エルカミノ大学では、図書館内で約1カ月の絵画展示が行われた。

アジア系アメリカ人テーマ展示に選ばれたのが、ロサンゼルス生まれの三世、ハツコ・メリー・ヒグチ(75歳)の作品「EO 9066」シリーズだった。EO 9066というのは、エグゼクティブ・オーダー9066号(大統領執行命令9066号)、つまり、1942年のルーズベルト大統領による日系人の強制収容命令を意味している。

ヒグチは、和歌山県出身の一世の父とサンタモニカ生まれで、和歌山県で教育を受けた二世の母の下に、1939年にロサンゼルスで生まれている。初めての子供だったのでハツコという名前をもらった。ヒグチは3歳から6歳まで、父母といっしょに、アリゾナ州ポストンの強制収容所ですごした。この収容所で、妹と弟が生まれた。

エルカミノ大学展示会では「EO 9066」シリーズの最新作「非外国人保育所」(Non-Alien Nursery School、水彩画、大きさ縦22インチx横30インチ)が会場入口に展示されていた。アメリカ生まれの日系人の子供は、外国人(Alien)ではないという意味で、戦争当時は「非外国人」という名称が使われていたのだった。

ロサンゼルス近郊、トーレンス市内にあるエルカミノ大学の図書館に展示されたハツコ・メリー・ヒグチの水彩画「EO 9066シリーズ、非外国人保育園」と作者ヒグチ。ヒグチ自身が3歳から6歳までを過ごしたポストン強制収容所(アリゾナ州)を描いている。(写真提供=カルチュラル・ニュース)

強制収容所で過ごしたときは、3歳から6歳だったヒグチには、当時の記憶はない。ヒグチ一家は、強制収容所を出たあとは、ロサンゼルスに戻り、1951年に現在のロサンゼルス空港近くに、10エーカーの農地を購入した。しかし、この農地購入のローン頭金を支払った直後にヒグチの父親は、45歳で死亡した。当時35歳だったヒグチの母親がひとりで、この残された農地を耕作、経営して、ローンを支払った。

ヒグチの母親は、ポストン強制収容所での生活について、ヒグチに話をしたことはなかった。「非外国人保育所」は、ヒグチの母親が2008年に亡くなったあと、母親の残した写真の中から、2014年に見つけた写真を模写したものだ。ヒグチは、自分が12歳だったときに亡くなった父親からも、ポストン強制収容所の経験を聞いた記憶がない。

ヒグチは1957年に、白人生徒が大半のトーレンス高校を卒業して、UCLAに入学した。ヒグチによると、当時、女性の就職先は教師しかなかったので、UCLAで教師の資格を得たという。そして、1962年から引退の2003年まで、トーレンス学校区(教育委員会に相当)内の小学校の教師として働いた。高校時代には、女子生徒会の会長に選ばれたり、UCLA時代には、当時白人学生が大半の中で「ホーム・カミング・クィーン」に選ばれるなど、ヒグチは、白人の中でも、常に模範的な存在だった。

ヒグチが、自分が幼児期にポストン強制収容所に居たことを知ったのは1980年代のこと、40歳代になってからだった。当時、日系人から日系戦時強制収容にたいする賠償運動が起こり、新聞で強制収容所のことが取り上げられたからだ。しかし、ヒグチは、自分から積極的に、母親にポストン強制収容所の体験を聞こうとはしなかった。ヒグチは、その理由を、仕事や子育てに忙しかったからだ、と説明している。

ヒグチが、初めて日系強制収容所の跡地を訪れたのは、1998年、ロサンゼルスの画家、ヘンリー・フクハラが始めたマンザナ・ペイント・アウト(Manzanar Paint Outs)に参加したときだった。フクハラはロサンゼルス出身の二世で、戦時中はマンザナに収容されていた。コンテンポラリー画家として成功したフクハラが、このマンザナ・ペイント・アウトを始めたとき、フクハラ自身は85歳だった。フクハラは、参加した画家たちに、自分の収容所体験を語ることも、米政府を非難することもなかった。

フクハラは2010年に亡くなっているが、マンザナ強制収容所の跡地に集まり、絵を描くこのイベントは、毎年、参加者が増え、今では、毎年5月の第3週末に、全米から100人以上が集まる恒例行事になっている。しかも、参加者の大半が白人という現象が起こっている。マンザナ・ペイント・アウトに参加する中で、ヒグチは「EO9006シリーズ」を描くようになった。

2004年10月ヒグチは、当時88歳になる母親をネバダ州ラフリンで開かれたポストン強制収容所体験者のリユニオン(再会)に連れて行った。このリユニオンの後、自宅に戻って、ヒグチは母親に収容所での体験を尋ねるが、母親はそれでも、答えてくれなかった。ヒグチの母親は「話したくない」と繰り返すばかりだった。それでは、思いを書いてくれと、ヒグチは母親に紙を渡した。そのとき、ヒグチの母親は「いつも子供の将来が心配だった」と書いた。この文章を読んで、ヒグチは初めて、強制収容所の中での母親の思いを知ったのだった。

 

© 2014 Shigeharu Higashi

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