ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2013/9/9/sushi-salsa-cactus-bamboo/

寿司とサルサ、サボテンと竹

6 comments

戦時中、父ダニエル・ガルシア(1925年12月7日カリフォルニア州パサデナ生まれ)は、日本の軍備施設を攻撃するため、海軍艦船上で砲弾を組み立てていました。一方、母ヨシコ・フチガミ(1930年2月2日厚木生まれ)は、アメリカ人侵略者を狙い撃ちにするため、日本で弾薬の組み立て作業に従事していました。間接的にではありますが、彼らは互いを殺すため懸命に働いていました。結果的にそうはならず終戦を迎え、戦後出会った2人は恋に落ち、結婚しました。

2人の出会いは祖父を通してでした。祖父は、地元警察と軍の間の連絡係でした。ある日、進駐軍の憲兵隊員だった父は、祖父を家まで送り届けることになりました。互いに言葉が通じなかたので、車中は気まずく、父はそれを解消するためにラジオをつけ、日本の音楽チャンネルをかけました。2人の気が合ったのでしょう。祖父は、家に着くと父を招きいれ、父は初めて母に会いました。

日本でのガルシア家:ルイーズ、ドロシー、ボブ、ヨシコ、ダニエル(写真提供:ドロシー・ユミ・ガルシア)

私は、4人弟妹の長女として日本で生まれました。ほとんどの日本人は「th」を発音することができないにも関わらず、私はDorothy(ドロシー)と名付けられました。

続いて生まれた妹と弟は、ルイーズ(祖父ルイスの名前から)とルパートと名付けられ、2人の名前も日本人には発音できないものでした。しかし、母は妹と私には日本語でミドルネームをつけてくれました。ボブ(ロバートの短縮型ではない方のボブです。)だけは母にも発音しやすい名前でした。

私は、「他の子と違う」子供として育ちました。そういう運命だったのでしょう。母が父に惹かれた唯一の理由は、父となら「他の誰とも違う」容姿の子供が生まれるだろうと思ったから、と後に母が話してくれました。

日本の幼稚園で撮った写真を見ると、私は丸顔で色黒でヘンテコな髪型をして目立っています。私のクラスメートたち(と妹や弟も)は、私を孤児と信じて疑いませんでした。

日本の幼稚園でのドロシー、2列目右から3番目

母が学業を終えるまで、私は日本人の祖父母と愛情豊かな叔母に育てられました。私たちは、近くの海軍基地から支給品の恩恵を受け、近所の人たちが容易に手にすることのできない物を手に入れることができました。

叔母は、私が非摘出子であるという噂を払拭するため、洗濯する度に私の布製オムツを近所の人たちに見えるよう干していたそうです。近所でそのような贅沢をさせてもらっている赤ん坊は私しかいなかったので、叔母は、不在だった海兵隊員の父親が私を大事にしているところを周囲に見せつけることで、噂を完全に鎮圧したのです。父は、家に戻る時は近所の子供たち全員に土産を持ち帰り、焼き鳥をアメリカ式に解釈したのか、子供たちをバーベキューでもてなしたそうです。

私が5歳の時、一家は日本から米国に移り住みました。1960年10月31日、私は、母が作ってくれた新しい服を着て、妹と弟と共に両親に連れられ、旅立ちました。

その頃、母のお腹の中にルパートがいることはまだ誰も知りませんでした。私たちの中で米国大統領になれる可能性があるのは、この弟だけでした。

飛行機に搭乗すると、頭に大きなとんがり帽子を乗せられ、私たちがそれまで見たこともない種類のお菓子が配られました。それが私の最初のアメリカ体験でした。私たちは、残りのお菓子に群がり、欲張って食べられる限り、お腹いっぱい詰め込みました。日付変更線をまたいでハワイに到着すると、再び31日が始まりました。次のフライトでも最初の区間と同じようにウィリー・ウォンカの「夢のチョコレート工場」さながらのもてなしを受けました。アメリカでは毎日お菓子が食べられるのかしら?そう思った私は、アメリカが好きになることを確信しました。

ホノルルでの乗り継ぎまでの間、周辺を歩き回っていましたが、気がつくと妹が見当たりません。ターミナル中がパニックになり、両親がその後どうするか決めるまで出発は保留となりました。すると、映画のワンシーンのように、レイ(ハワイの花輪の首飾り)にすっかり巻かれた姿でルイーズがどこからともなく現れました。私たちは便に間に合っただけでなく、アメリカに住む新しい家族に両手いっぱいのお菓子とレイをお土産に持って行くことができました。

ロサンゼルスに到着した私たちは、父方の祖父母のルイスとトリニダード・ガルシアの愛情深い抱擁を受けました。既に新学期は始まっていたので、両親は、私をすぐにでもサウス・パサデナの学校に入学させなければならないと考えました。一方、カリフォルニアにおける日系アメリカ人の強制収容について読んでいた母は、カリフォルニアの学校に対する不安感も抱いていました。(その何年も後、私たちはパサデナのファースト・プレスビテリアン教会で行われた大統領令9066に関する展示を訪れ、母が何年も前に読んだ日系アメリカ人の苦境について、私たちはその時初めて知ったのでした。)その後すぐ、両親は父の赴任先であるアラメダに妹と弟を連れて発ちました。

月曜の朝、初登校の前に私はスペイン語を話す祖父母と共に朝食のテーブルにつきました。その時の食事は、私がそれまで見た中で最もエキゾチックな料理でした。それは、パパス・コン・チョリソー(ジャガイモのスパイシーソーセージ添え)と卵料理でした。

© 2013 Dorothy Yumi Garcia

花嫁 ディスカバー・ニッケイ 家族 食品 ハパ 移住 (immigration) 日本 ニッケイ物語(シリーズ) ニッケイ+(シリーズ) 戦後 多人種からなる人々 戦争花嫁 妻たち 第二次世界大戦
このシリーズについて

「ニッケイ」であるということは、本質的に、伝統や文化が混合している状態にあると言えます。世界中の多くの日系コミュニティや家族にとって、箸とフォーク両方を使い、日本語とスペイン語をミックスし、西洋のスタイルで大晦日を過ごすかたわら伝統的な日本のお正月をお雑煮を食べて過ごすということは珍しいことではありません。  

このシリーズでは、多人種、多国籍、多言語といったトピックや世代間にわたるエッセイなどの作品を紹介します。

今回のシリーズでは、ニマ会読者によって、各言語別に全ての投稿作品からお気に入り作品を選んでもらいました。

ニマ会のお気に入りに選ばれた作品は、こちらです。

当プロジェクトについて、詳しくはこちらをご覧ください >>


その他のニッケイ物語シリーズ >>

詳細はこちら
執筆者について

ドロシー・ユミ・ガルシアさんは、アーティスト、カルチュラル・ワーカー、教育者として公立及び私立学校や大学で40年以上に渡り教鞭をとってきました。ガルシアさんは、エイズホスピスや少年鑑別所、日本の大学、南アフリカ共和国の非白人居住地域といった様々な場所で、人形や マルチメディア媒体を利用した数百以上の映像作品を制作してきました。2003年ガルシアさんは、教育や持続的な経済発展をアートを通して促進するため、非営利団体「Art Aids Art」を設立しました。南アフリカ共和国に拠点を置くこの団体は、貧困やDV、エイズ危機からのトラウマと戦う女性たちにオアシスとなる場を提供するため、ケープタウン近くのカエリチャに多目的のコミュニティセンターを設立しました。今日までガルシアさんが取り組んできた「作品」の中で、愛娘クロエさんの成長ぶりに最も満足している、とご本人は語っています。

(2013年9月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら