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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その2

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プロシア人に率いられて太平洋を渡る

会津が官軍に攻め入られ鶴ヶ城が陥落したのが1868年秋、この翌年の春までに、会津を出てカリフォルニアにわたった一団があった。

当時、会津藩にオランダ国籍のプロシア人でヘンリー・シュネルなる人物がいた。武器商人で、会津藩と米澤藩の軍事顧問であり、かつ奥羽越諸藩同盟越後方面軍の参謀でもあった平松武兵衛という日本名をもつこの男が、会津から二十数人を率いて、カリフォルニアで入植事業を企てたのだ。

彼の妻は日本人(会津藩士または庄内藩士の娘ともいわれる)で、2人の間にできた子供の世話係として、おけいはこの移住計画に加わったと見られている。

横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った一行は、サンフランシスコに到着。そこからは蒸気船でサクラメント川を遡り、さらに荷馬車でゴールドラッシュで金鉱堀が盛んだった土地に近い、コロマ村のゴールドヒルという原野に落ち着いた。

今は公園化された「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」跡

シュネルは農園をつくるため土地を購入し、「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」となづけ、養蚕やお茶などの栽培を計画した。しかし、事業は結果としてうまくいかず、2年ほどして彼は、金策のためだと思われるが、日本へ行くと言ってコロニーを去った。

しかし、二度と戻って来ることはなかった。理由は分からないが、一説には殺されたともいわれる。

いずれにしてもおけいたち日本人は取り残され、しばらくは共同生活をしていたようだが、最後は離ればなれになった。幸いおけいは、コロニーの土地を管理していた家に雇われた。だが不運なことに、ほどなくして病にかかり亡くなった。

1860年の幕府の遣米使節団など、これ以前にアメリカ本土に渡った日本人はもちろんいる。また、アメリカへの移民としては、明治元年にハワイに出稼ぎで渡った「元年者」と言われる人たちがいた。

しかし、アメリカ本土への移民とみられるのは少数で、まして一労働者ではなく農業移民団という計画で本土へ渡った日本人は、彼らが初めてだと思われる。

それだけで注目される史実だが、若松コロニーの存在は長い間知られていなかった。日本にも記録は残っていない。存在が明らかになるきっかけは「おけいの墓」だった。

墓の謎が徐々に解明される

おけいが亡くなり、コロニーも消滅して40年余が過ぎた1915年(大正4年)の初夏、現地で農園を経営する日本人、国司為太郎と邦字新聞「日米新聞」の記者竹田雪城によって、この墓が発見される。日本人娘の墓が近くにあるということを知った国司が竹田に話し、二人で訪ねてみたのだ。

最初はなぜこんなところに19歳の日本人女性の墓があるのかわからなかったが、近くのビーアカンプ家という白人宅を訪ねた結果、おけいの存在と若松コロニーのことを教えられた。

コロニーがなくなった後、おけいはこの家に引き取られ働いて、同じように引き取られた日本人の桜井松之助らが、おけいのために現地に墓を建てたこともわかった。

その後、この事実が日本でも発表されると、日本では歴史研究家、木村毅が渡米し調査にあたった。一方、現地では日系人や日本人、さらにはこの歴史に興味を抱くアメリカ人によって当時の新聞記事や国勢調査などの記録が発見され、調べが進んだ。

おけいの故郷である会津若松でも、図書館長をつとめた竹田正夫をはじめ、教育関係者らによって、おけいの身元など史実が整理されてきた。

このように日米で小さなコロニーの歴史に対する関心が高まったのは、ユニークな史実で謎が多いこともあったろうが、なんといっても、このコロニーの象徴となった、薄幸なおけいの存在が大きい。

日米で進む歴史保存とフェスティバル

アメリカの日本人、日系人にしてみれば、彼女は移民としての先駆者の一人とも言えるし、わずか19歳で異国の地で亡くなってしまったことへの同情があったろう。

一方、会津から見れば、幕末から明治にかけての会津苦難の時代に、故郷から逃れたもののさびしく一人世を去ったこの少女に対する同郷人として、やはり同情と慰労の気持ちがあった。

会津では、長年おけいについて研究してきた古川佐寿馬が音頭をとり1957年、おけいの墓碑のための募金活動が教育関係者を中心に行われ、これが実を結び背あぶり山に建立された(1985年に同じ背あぶり山のなかで現在の地に移転)。さらに69年にはこの史実を偉業として守っていこうと「おけい顕彰会」が発足。80年には墓参団が現地に趣き、二次(82年)、三次(86年)と続いている。

一方、カリフォルニアでは1966年に、「おけいの墓」を含む“若松コロニーの遺跡”がカリフォルニア州の史蹟に指定される。69年にはこの墓がたつ丘の麓にあるゴールドトレイル小学校の敷地内に「若松コロニー入植100年祈念碑」が建てられた。

また、数年前にアメリカン・リバー・コンサーバンシー=American River Conservancy (ARC)という自然保護NPOなどが、会津からの募金協力も得て、おけいの墓のある土地を含めて周辺一帯を民間から買い取り、全体が公園化されることになった。

これを契機にフェスティバルが3年前から開かれ、今年は3回目を迎えたところだった。この地に若松コロニーというユニークな文化遺産があることを記念し、その時代に思いを馳せるという企画である。

敷地内では、日本の折り紙の展示や、仮設のステージでは太鼓や鎧兜に身を包んだ侍のパフォーマンスも登場した。また、そのむかし一時はおけいたちが住んでいた古い農家も改装され、見学できるようになっている。庭先には日本から持ち込んだと思われるケヤキの木が、いまは大木となって威容を誇っている。

会場には、日本文化に関心のある一般の人に加えてサクラメント近郊の日系人や日本人も数多くつめかけ、長閑な丘陵地は数百から千人ほどでにぎわった。

見晴らしのいい丘の上でフェスティバルが開かれた

その3 >>

 

* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年6月17日掲載)からの転載です。

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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