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日米間に生きた母と娘
占領期の横浜に来たのは軍人ばかりではない。ロサンゼルスの南にある港湾都市ロングビーチ市に住むユニス・サトウ(旧姓ノダ)さんは1921年、北部のリビングストン生まれ。父は静岡県で養蚕業に失敗し、母は写真花嫁で横浜からサンフランシスコに渡った。家族はカリフォルニアの入植地として有名なヤマトコロニーで農業を営んだが、戦争勃発後、コロラド州、ミシガン州、ワシントンDCなどを転々とし、兄と弟はイタリア戦線で大きな犠牲を出しながら戦果を挙げたことで有名な日系人部隊第442連隊戦闘団の兵士となった。
ユニスさんは苦学した後、地元で教師となり、ニューヨークにある大学院にも進学した。そこで日本で教師募集があることを知り、1948年秋、ロサンゼルスから船で横浜へ渡り、当時は横浜山手女学院と名乗っていたフェリス女学院(1950年名称復活)に赴任したのである。
フェリスでは1953年まで英会話や家政科のクラスを持ち、今もユニス先生を慕う多くの教え子がいる。この間にGHQのスタッフとして進駐していたトーマス・サトウさんと横浜の米海軍チャペルで結婚式を挙げた。
帰国後、ユニスさんは三人の子供を育てながらロングビーチ市でPTAや福祉など地域の奉仕活動に貢献し、1975年同市初めての非白人市会議員に、1980年には同市初めての女性市長に就任した。
かつては排斥された日系人の、しかも女性市長の誕生は、画期的な出来事であった。市長時代は海軍基地の移転や臨海部の工業化、空港建設などの開発政策、愛知県四日市市との姉妹都市提携など日本との国際交流も進めた。
ユニスさんは小柄な身体だが、90才を超えた今も様々な公務で忙しい毎日を送っている。「一世で開拓移民として渡り、苦労しながら大勢の子供を育てた母の後ろ姿をみながらここまでやってきた」と綴る自叙伝 An Abundant Life〔英文、私家版〕は、日米の激動の時代を力強く生きた母と娘の感動的な物語である。
WACが写した占領下の横浜
昨年12月、私はある資料の所蔵者に会うため、サンフランシスコまで飛んでレンタカーを走らせた。きっかけは二年ほど前、日米関係史の研究者ロジャー・ディングマンさんから教えられた From Japan With Love 1946-1948 という本である。ありふれたタイトルだが、取り寄せてみて驚いた。
著者マリー・ルジェーリ(旧姓キディ)は1921年、サンフランシスコに生まれている。1944年、ミネソタ大学在学中に募集に来た陸軍婦人部隊(略称WAC)に志願、1946年10月、約200人の部隊の一員として軍用貨物船で横浜に来た。同書はサンフランシスコの両親、家族あての手紙形式で、万代町周辺にあったWACのカマボコ兵舎に住んで、1948年4月に帰国するまで、横浜での米兵たちの日常と、東京、鎌倉、京都、伊勢志摩、広島、長崎、仙台など旅行した各地の様子が記述されている。
なにより興味を引くのは、愛用のカメラで撮った多数の写真である。米軍施設の内部、瓦礫の残る街並み、スーベニアショップやヤミ市、店先の商店主や田んぼの農夫、賭け事をする労働者といった庶民の姿、人力霊柩車や肥桶を運ぶ荷車、街角のポスター、DDT1を空中散布する米軍飛行機など、彼女は旺盛な好奇心であらゆるものを撮りまくっている感がある。また赤子を背負った女性や路上で遊び米軍専用列車、ジープに集まってくる子供たち、戦争孤児だろうか駅構内でうずくまる子供など、様々な女性と子供の姿が女性ならではの柔らかいまなざしで写されている。
私は以前横浜市の歴史編集事業でこうした写真を調査したことがあるが、同書の写真はこれまで見たことのないようなものばかりであった。今回のカリフォルニアでの長期滞在では、ぜひこの本の著者に会って話を聞き、これを横浜へ紹介できればと思い、すぐに出版社に問い合わせた。
バークリーの自宅で迎えてくれた次男リチャードさん(同書の編集者で本業は弁護士)から、まずスキャンされた数千枚におよぶ写真画像をみせてもらい、2日後には車で2時間半ほど郊外のモデストに健在のマリーさんに会うことができた。
横浜時代に撮ったアルバム10冊を前にして、マリーさんは「横浜からよく来てくれた」と歓迎してくれた。そして「私は当時、日本人が復興にがんばっている姿に強い印象を持った。日本の子供たちがとても好きだった。今でも横浜を愛している」と話し、そのアルバムを貸してくれ、複製で利用することに同意してくれた。現在、リチャードさんとその手続きを進めている最中である。
マリー・ルジェーリ写真コレクションが公開できるまでにはまだ相当の時間がかかりそうだが、近い将来、市民や研究者にとって横浜の占領時代を写した貴重な記録となると思う。
* * *
カリフォルニアで出会った占領下の横浜を知るどの人も、横浜は焼け跡でみすぼらしかったが、人々は生き生きとしていたと語った。そしてどの人もそうした横浜を語り出す段には青春時代の自分がよみがえってきたのか、一様に目を輝かせ、遠い目をして懐かしそうに話してくれた。こんなふうに横浜に熱い想いを寄せてくれる何人ものアメリカ人に出会えたカリフォルニアは、横浜にとても近い、それが実感である。
注釈:
1. DDTとは、戦後、進駐軍が蚊やシラミを駆除するために大量に用いた農薬
* 季刊誌『横濱』37号(神奈川新聞社発行)より転載
© 2012 Hiroshi Onishi