ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2012/10/2/authentic/

Authentic (オーセンティック)

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「出身は?」「英語はどこで覚えたの?」「普通のアメリカの食べ物を食べてるの?」 

母と父

私が住んだことのあるコミュニティには、日系三世はおろか、アジア系の人はほとんどいませんでした。これは何年も前のことですが、クラスメイトや見知らぬ他人でさえも、私にお決まりの質問をしてきました。彼らからすれば、日系アメリカ人も日本人も同じだったのです。

その後、日本文化や日本食人気が高まると、彼らとのやり取りは少し変化しました。私は、質問される立場から、最新の日本食レストランやトレンド、歴史、日本に関する様々なことについて、職場の同僚の見解を聞かされる側になりました。

そんな時彼らは、私を直接見るのではなく、私を視界に入れながら、演台からクラスに向かって演説をするような口ぶりで話していました。そして私は、その様子を舞台袖から見ているわけです。彼らの質問やコメントは、単なる美辞麗句を並べ立てたようなものでした。私は、口を固く結んだまま微笑を浮かべ、頭を少し傾げて彼らの話を聞きました。それから時々顔をそむけ、控えめに、かつ微妙に彼らの話を承認するようなふりをし、あたかも彼らの考えと私たちの深遠な見識とが一致しているかのように振る舞いました。「ええ、その通り」、「もちろん」、「そうね」と相槌を打つかのように。

このことから思い出されるのは、子供のころの私は、自分は他の子と少しも違わないことをクラスメイトに分かってもらいたくて必死だったということです。私は、自分の家や家族が、他の子たちのそれと違っているとは思われたくなかったのです。少し大人になった私は、子供の時とは真逆のことを周囲にほのめかすようになりました。家族も私も、確かに異質でした。でも実際のところ、彼らの思う日系人像がどのようなものなのか、理解しているわけではありません。 

私は、英語だけで育てられました。生け花や空手、折り紙に触れることはありませんでした。(かつて拒否していたことが、今では愚かしく感じられます。)父は、痩せてもなく、か弱くもなく、テレビでよく見るアジア系のステレオタイプのように難解な発言をしたり、遠回しな言い方をすることはありません。父は、ぶっきらぼうで怒りっぽく、不機嫌でした。そんな父の影響もあって、私たち一家の食卓は、静かで上品な雰囲気とはかけ離れていました。労働者や制度、特に父の反対する体制についての話になると、食卓は侃々諤々とした雰囲気になりました。

では、当時の私は、何を食べていたのでしょうか?母は、グルメなんていうものをあざ笑い、「高価な材料を使えば、誰でも料理できるでしょう。本物の料理上手は、ある物で作るの」と言いました。玉ねぎ添えのスクランブルエッグとお粥(私たちは、「オカイ」と呼んでいました。)、ミートローフやフライドチキン、腹身ステーキに母が菜園で育てたトマトソースをたっぷりかけた料理、ポークチョップとザワークラウトにご飯を添えたもの。そして食卓には、ご飯がありました。いつだってご飯とお茶がありました。

食卓の父

夏の一番暑い日には、冷たい麺でした。私たちはそれを、ウェスティングハウス社製の扇風機で足首を冷やしながら、地下室で食べました。日本食レストランで冷たい麺を見たことがありますが、我が家で食べていた麺のように太くもなければ、汁もさほど風味がありそうには見えませんでした。

母の作る巨大な巻きずしや、中身を詰め過ぎた稲荷ずしも、レストランで見るものとは違いました。(私たちは、稲荷ずしを「亀」と呼んでいました。太った亀、と。「稲荷ずし」という本当の名前を知ったのは、ほんの数年前でした。)父はそれを「田舎の食べ物だよ」と言いました。「お母さんは農家の出だから。」  

残念ながら、私には皆さんにご紹介できる特別なレシピはありません。でもそれは、他の多くの家庭同様、食べ物に限った話ではないと思うのです。私の幼少期の体験には、特に珍しいことはありませんでした。ただ、私たちは孤立し、いじめにあい、苦痛を強いられ、除け者にされました。

家庭内で虐待がある家族は、外の世界に対して、家庭内には何の問題もないかのように振舞う、という記述をどこかで読んだことがあります。私の家族は逆でした。家の中で、夕食を囲む食卓は、私たちの安全地帯でした。私たちは、テレビや雑誌の世界と、外の世界で自分たちが経験していることがすっかり同じであるかのように振る舞っていました。私たちは、一端のコミュニティメンバーであるかのように、様々な問題や考え方について議論し、話し合いました。私たちが飲み、食べてきたお茶やご飯、田舎の食べ物を通して、今の私には、母が料理人の何を称賛していたのか、分かるのです。私たちは、ある物で料理を作ってきました。私たちは、日系アメリカ人でした。正真正銘(Authentic)の。 

* * * * *

このエッセイは、「いただきます!」編集委員のお気に入り作品に選ばれました。こちらは、編集委員からのコメントです。

ニーナ・カオリ・ファーレンバムさんからのコメント:

この作品で描かれている家庭料理の鮮明な記憶と、作者の両親や家庭生活に対する愛情に、世界中の日系人が共感するでしょう。少ない文字数で、周囲に日系人がほとんど居ないことで発生する苦労や団結といった複雑な側面や、母親が作ってくれた稲荷ずし、「亀」の幸福な記憶が描かれています。「本物の料理上手は、ある物で作るの」というニシモトさんのお母さんの言葉からは、季節感という伝統への誇りや日系人の柔軟性、そして日系ディアスポラが共通して耐えてきたつつましさが感じられます。ニシモト一家の、苦労がある中でも食べ物を通して感じられる愛情と思いやりは、文化や生活環境を超え、共感を呼ぶのです。

ナンシー・マツモトさんからのコメント:

私は、バーバラ・ニシモトさんの作品、「Authentic (オーセンティック)」の強気で正直なところや、彼女の家族がアジア系のステレオタイプに追従しないことへの、彼女の挑戦的とも言えるプライドが好きです。日系二世であるバーバラの母が作ったシンプルな「田舎」料理のくだりを読み、私も母や祖母が作ってくれた料理を思い出しました。その多くは、ニシモト家のものと同じでした、バーバラが、家庭料理を彼女自身が作り上げた日系アイデンティティと関連づけるところは、感動的であり、説得力がありました。私自身は、彼女ほどの孤立感を感じ、排除されているという意識を持って生きてきたわけではありません。しかし、このエッセイを通し、私は、作者の痛みを深く感じ、同時に私自身の幼少期の家庭の食卓を、外の世界からの侮辱や痛みが入りこむ隙のない魔法円として思い出したのです。 

© 2012 Barbara Nishimoto

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このシリーズについて

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このシリーズでは、「ニッケイ食文化がニッケイのアイデンティとコミュニティに及ぼす影響」というテーマで投稿されたものを紹介します。

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執筆者について

バーバラ・ニシモトさんは、シカゴで生まれ、シカゴ西部の郊外で育ちました。彼女の両親は、サンホアキン・バレー(カリフォルニア州)で育ち、アーカンソー州ローワー強制収容所で収容されていました。バーバラさんは、現在テネシー州ナッシュビル在住です。 

(2012年9月 更新) 

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