ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/7/4/robin-toma/

「間違った歴史を世に知らしめ、偏見の拡散を防がなければならない」 ロサンゼルス郡人倫委員会エグゼクティブディレクター ロビン・トーマさん

日系南米人収容所体験者の権利を求めて

2006年の春、私は2名のロサンゼルス在住日系ペルー人の話を聞く機会があった。彼らのうちの一人は第二次大戦中に、日本軍の捕虜となっていたアメリカ人との交換要員として、まだ子供の頃、強制的に南米からアメリカの収容所に移送された男性。そしてもう一人は移送された夫を追ってアメリカにやってきた女性だった。

彼らに会うまで、日系人の収容所問題と言えば、日系アメリカ人のことしか知らなかった。しかし、南米から移送されてきた人たちの体験を聞けば聞くほど、彼らがアメリカと南米側の政府にされたことが甚だしい人権蹂躙にあたることは明白だった。日系ラテンアメリカ人の彼らは、日本から移民した先で築き上げた仕事、地位、財産、人間関係のすべてを取り上げられた挙げ句に、戦後は南米側の政府に帰国受け入れを拒否されたのだ。そのため、多くが日本に引き揚げていったが、私が会った人のように、知り合いや親戚を頼ってアメリカに残った日系ラテンアメリカ人もいた。

日系三世の弁護士、ロビン・トーマさん

1999年に和解が成立した「望月対米国(Mochizuki v.s. United States)は、日系ラテンアメリカ人の生存者たちが米国政府に損害賠償を求めて闘った訴訟だ。米国政府からは当時のクリントン大統領の正式謝罪と、1人あたり5000ドルの賠償金を勝ち取った。この時に、ボランティアとして日系ラテンアメリカ人の権利を求めて闘ったのが、日系三世の弁護士、ロビン・トーマさんである。

1994年、リーガルクリニックを通じて彼らの存在を知ったロビンさんは、流暢なスペイン語を話し、何よりも人権に取り組んでいる弁護士であることから自ら手を挙げた。ロサンゼルス郡役所勤務の公務員である彼にとって、仕事としてアメリカ政府を相手に闘う選択肢はなく、無償のボランティアとして活動に関わることになった。

「私がしたことはまず、弁護士チームを編成して、活動家に呼びかけてキャンペーン・フォー・ジャスティス(正義を勝ち取るキャンペーン)を立ち上げたことです。人々を啓蒙して、議会やクリントン大統領に対して、戦時中にアメリカ政府が日系ラテンアメリカ人に行ったことは許されない失敗だということを訴え続けました」。キャンペーンの成果が実り、前述の内容で和解が成立した。しかし、賠償金は日系アメリカ人への4分の1という額だった。「闘いはそこで終わりではなく、今後も正義のために活動を続けていかなければなりません」

何不自由なく生まれ育った自分自身への罪の意識

ロビンさんは、父方の祖父が沖縄生まれ。父方の祖父はハワイ、マウイ島のプウコリ砂糖黍農園に移住した後、ソルトレークシティで過ごし、最終的には沖縄に引き揚げた。そして、ロビンさんは、父と母がソルトレークシティで出会った後に住んだロサンゼルスで生まれた。

大きな転機はカリフォルニア大学サンタクルズ校に進学したことだという。「ロサンゼルスの中流の日系人家庭出身の私の目の前に新しい世界が開けました。そこで友人に恵まれ、勉学面で刺激を受け、スペインのバルセロナに留学する機会もつかみました」。そして彼は大学卒業後に、UCLA法学院に通い弁護士となった。サンタクルズへの進学を人生の第一の転機だと語るロビンさんだが、スペイン留学が第二の転機、そして弁護士になったことが第三の転機と言えるのではないだろうか。

そして、彼は日系ラテンアメリカ人たちとの出会いを経て、今も仕事としてロサンゼルスで深刻化しているヘイトクライムなどの犯罪の解決に向けて州の制度を改革するプロジェクトに取り組むなど、一貫して「人権問題」に力を注いでいる。

新鮮だったのは、「私が日系ラテンアメリカ人の賠償訴訟にかかわることができて、本当に幸運だった」という彼の言葉だ。「これが成し遂げられなければ、彼らの悲劇が置き去りにされていたことになります。彼らが受けた痛みを二度と繰り返さないために、間違った歴史は世に知らしめなければなりません。それによって偏見が広がるのを防ぐことにつながります。この件で、強制移送と収容の体験者だった方々から感謝の手紙を受け取り、感激しました。しかし、私は感謝されたくて、やってきたわけではありません」

まるで自分が悲劇の当事者であるかのように「取り組めたのが幸運だった」「感謝されたくてやったわけではない」と語るロビンさん、彼が人権に取り組むモチベーションはどこにあるのだろう。

「世界の人々が少しでも偏見、差別、そしてそれによる暴力によって苦しむことがないように願っているからです。人間は生まれてきただけでラッキーですが、それでもどのような環境に生まれたかによって運命が分かれます。生存を賭けた競争や困難の中に身を置かなければならない子供たちもいます。そういう境遇の人たちを『可哀想だ』と片付けることは簡単ですが、私自身は何不自由なく生まれ育って来たことへの罪の意識を感じるのです。父は大学を出ていないし、中流家庭でしたが、それでも私たちの家族はひもじい思いをしたことも、清潔な衣服がなくて苦労したこともありません」。静かな語り口の中にも彼の熱い情熱が感じられる。

沖縄にルーツを持つロビンさんが、祖先の地を訪問した際に最も印象深かったこととして戦争の犠牲者の慰霊碑を挙げた。「亡くなった一般人の数の多さに愕然としました。慰霊碑には私と同じ名字の人の名前も発見しました。もちろん親戚かどうかなんてわかりませんが、それでも非常に感情移入してしまいました」

彼のように自分以外の人の人生に感情移入できる人こそが、本物の弁護士なのだと思う。彼自身「自分のために人生を生きるだけでは十分ではない」と明言している。

彼の感情移入や感謝の念はまた、自分の祖先にも向けられている。「トーマ家がアメリカに移住してまだ三代目です。その前には、沖縄で私の祖先が綿々と歴史を紡いでいたのです。トーマ家の歴史は、つまり沖縄での方がアメリカに上陸してからよりも遥かに長いわけで、沖縄には深い絆を感じます」

多忙な日々を送るロビンさんだが、2012年には韓国系ブラジル人の妻や子供たちと共に、沖縄を訪問することを楽しみにしているそうだ。

© 2011 Keiko Fukuda

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執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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