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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その23

>>その22

安孫子久太郎;新聞発行人、銀行家、一世農業コロニー創始者

アメリカ本土で最も尊敬を集めた一世指導者は、安孫子久太郎だった。彼は、大陸で最多の購読者を持っていた「日米新聞」の経営者兼発行人として、一世のアメリカ生活、また人種関係についての考え方に大きな影響を与えた。

安孫子久太郎 (Gift of Yasuo William Abiko Family, Japanese American National Museum [92.127.7])

彼は、一世が当初持っていた出稼ぎ根性が社会の様々な問題の根源で、同時に白人の日本人非難をも生みだしていると見ていた。したがって反日運動を抑えるためには、一世が出稼ぎ根性を捨て、アメリカに骨を埋める覚悟で永住土着を目指さなければならないと主張した。そのために安孫子は一世男性に妻を呼び寄せ安定した家庭を持つことを勧め、写真結婚を推進した。一世が家庭を持つことで、賭博など出稼ぎ生活に伴う社会悪が排除され、ひいては定住化も進むということが彼にはよく分かっていたのである。1

また安孫子は定住化促進の一環として、カリフォルニア州中部のリビングストンに3,000エーカー余りの土地を購入し、それを40エーカーづつに分け、定住を希望する一世農民に売り渡した。1906年に始まったこの一世農業村は「大和コロニー(大和植民地)」と呼ばれた。2

1918年、「大和コロニー」は東に隣接するクレッシー地区へと拡がった。さらにその翌年、安孫子は数マイル離れた場所に「コーテス・コロニー」を設立し、日本人移民の定住を援助するという彼の夢は着々と実現していた。大和、クレッシー、コーテス各コロニーの定住者たちは、自主独立の精神を体現し、安孫子が提唱したようにアメリカにしっかりとした基礎を築いたのである。

アメリカ社会適応への二つの道:奥村多喜衛牧師と牧野金三郎

ハワイ一世社会の進路に影響を与えた指導者に、奥村多喜衛牧師と牧野金三郎がいた。激動の1920年代、30年代、一世たちが如何にアメリカ社会に適応するかという問題で、この2人は全く異なった主張を行なった。

奥村多喜衛はキリスト教牧師であったが、一世への彼の影響力は単なる宗教の域をはるかに超えていた。1894年にハワイに渡った奥村は、すぐにそこを永住地と決めて、10年後にマキキ教会を設立し、一世と二世にキリスト教の福音を伝えた。奥村は、白人たちの反日感情の原因は日本人自身の態度や行動であると考えていた。彼の考えによれば、一世がアメリカの習慣を受け入れ、ストライキや耕地からの脱走など不評を買う行為を慎むことが最優先事項であった。1909年の日本人大ストライキの際、奥村は労働者に職場へ戻るように訴え、その後も一世にハワイの「客人」としての自分の立場をわきまえ白人社会と協力するようにと演説した。3

一方、牧野金三郎はアメリカ人と同様に扱われたければ、アメリカ人らしく行動し、自分の権利を主張しなければならないと説いた。彼はイギリス人実業家と日本人の母の間に生まれ、日本で育ち母の性を名乗っていたが、日英両語に堪能であったため一世たちにとっては貴重な存在だった。

1909年日本人大ストライキの中心的指導者として、牧野は賃金差別を終わらせるために労働者団結行動が必要であると唱えた。また、1920年ストライキの時も、日本人労働団体連盟会の資金管理について歯に衣着せぬ執行部批判を行ない、彼の経営する新聞社「布哇報知」は破産瀬戸際まで追い込まれた。

いわゆる外国語学校問題でも、穏健派の奥村牧師と牧野の意見が衝突した。第一次世界大戦終結後、アメリカ社会では排他主義が強まり「一国旗一国語」のスローガンのもとに外国語学校に非難の目が向けられ、特にドイツ人と日本人コミュニティーがその標的となった。1918年、21州で外国語学校規制法案が提出され、ハワイでも同様のクラーク法が議会を通過した。クラーク法は日本語学校規制をその主目的とし、学生1人当り年間1ドルの税を義務付け、条件に合わないクラスの閉鎖処分も含んでいた。

一世指導者の間では、この法律の正当性を問う訴訟を起こすか起こさないかで意見が分裂していた。奥村牧師を代表とする穏健派は、裁判による争いが日本語学校にとって不利なだけでなく、米国人の感情をも傷つけると訴訟反対の立場を取った。だが牧野は、アメリカ憲法によって少数民族が外国語学校を維持する権利は認められているとして、一世たちに法廷闘争の道を勧めた。結局、彼は自分の信念を貫き、合衆国最高裁判所まで戦い抜いた。そして、6年後の1927年2月21日、ついに全面勝訴の判決を受けたのである。牧野が始めから主張した通り、裁判所は「子供に対する外国語教育は親の権利であり、また特権でもある。それを法のもとに規制する事は、かような権利と特権を制限する点からも憲法違反である」と論じた。

その知らせを布哇報知社で受け取った牧野は、電報を振り回し「オーイ、勝ったぞ。勝ったぞ。」と叫びながら、階段を一気に駆け上がり編集室へ飛び込むほどの喜びようだった。その後、彼は5,000人を超える聴衆が集まったハワイ中央学院で、「個人も団体も与えられた自由と権利の主張を忘れてはならない」と一世一代の演説を行ない歴史的勝利を祝ったのである。4

母親へ合いに日本へ一時帰国した牧野金三郎(左から):モリエ・オカムラ、牧野金三郎、牧野ミチエ、キクエ・オカムラ、1911年。(Gift of Asae Okamura, Japanese American National Museum [97.297.1])

その24>>

注釈:
1.岡省三、“安孫子久太郎伝”「北米毎日」1980年5月より8月まで25回連載。
2.大和コロニーについての詳細は、Kesa Noda著、Yamato Colony: 1906-1960(リビングストン・マセード、1981)を参照のこと。
3.Paul Jacobs、Saul Landau、Eve Pell共編、To Save the Devil, Volume 2: Colonials and Sojourners、213ページ。
4.Ronald Katani著、The Japanese in Hawaii: A Century of Struggle、54ページ。

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。  

© 1992 Japanese American National Museum

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執筆者について

アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新

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