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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その11

>>その10

砂漠から農地

                
土になる覚悟を決めて腰を据え1

日本人移民は、太平洋岸からロッキー山脈に至る各州で農業に従事した。1909年の時点で、3万8,000人もの一世が農場労働者として働き、彼らにとって最大の雇用口であった。特にその内95パーセントの労働者はカリフォルニアにいて、他人種を圧倒していたのである。

ワシントン州キングストンの福沢俊三郎は、一世の農業について次のように語っている。「農業はかならずしも安定した職業とはいえなかったけれど、その日稼ぎのタウン労働や鉄道、ソーミル(製材所)の労働に比べると、まだ安定感があった。私たちは、異郷のアメリカで生きるためには、土地にしがみつくしかなかった」2

一世のなかには、季節労働者から契約農民、収穫分配農民、現金借地農民、さらには自作農民になるものも相当数いた。カリフォルニアを筆頭に、ワシントン、オレゴン、コロラド、ユタ、モンタナ、テキサス各州に多数の日本人農民が現れた。

1902年の統計によれば、カリフォルニア州北部において、350人の一世が合計17,250エーカーで農業を営んでいた。一世農民は、さらに8年の間に1,816人まで増加し、その耕作面積は99,254エーカーに達した。3 その中でも、「ポテトキング」と呼ばれた牛島謹爾(ジョージ・シマ)は、空前の大規模農業経営を成功させた。彼は、ストックトン近郊のサンワーキン河流域の数千エーカーに及ぶ湿地帯を開拓し、非常に生産性の高い農地にかえたのである。1920年には、ここからカリフォルニア州全馬鈴薯の80パーセントが出荷されていた程である。その6年後、牛島の死亡した時の推計によると、残された不動産は1,500万ドルの価値があったといわれている。4

同様に「ライスキング」と呼ばれた国府田敬三郎もカリフォルニア州ドスパロスで、1万エーカー規模の米作を行い、第二次世界大戦発生直前、彼の農場では数百万ドル分の米が収穫されていた。

しかし、大部分の一世農民は30エーカーから40エーカー程度の借地で野菜類を耕作していた。特にロサンゼルス周辺の一世農民は、収穫した野菜を中央市場に運び、自分たちで売却し成功を収めたのである。

一世農民の多くはイチゴ栽培の分野へも進出した。イチゴ栽培はそれほど資本を必要としなかったので、当時、一世にとってはもっとも手軽に始められる事業だった。いちごの苗の寿命は4年間と短かったが、その代わりすぐに収穫が可能だった。5

1909年から1910年にかけ、連邦移民問題委員会は日本人が賃金労働より借地農業を好む理由を調査し、「日本で自作農として土地を耕したのと同じように、ここでも農業に従事している」と結論付けた。6 また一世の目から見ると、農業は自立と定住への希望を実現するための最良の方法でもあった。

開拓者の地と汗沁みなむ肥沃の地
見る限り青々と苺の畝7

一世農民の協力

一世農民は早い時期から各地に独自の共同経営組織や農業協同組合を作った。必要物資の大量購入、借入金返済延長、市場への共同出荷などはこれらの団体が特に力を発揮した分野であった。この意味において、一世農業家にとって相互協力が不可欠であった。

ワシントン州ホワイトリバー・バレーの一世酪農業者達は、まずアメリカ人経営の酪農場で働き、経験と資本を得てから事業を起こした。その際、一世たちは2、3人が資本を合わせて共同経営の形式で牛と牧草地を購入した。農業が規模の面から全ての出資者を雇うことができない場合、何人かがしばらく他の農場か鉄道で働くこともあった。共同経営は、個々の出資者が自分の農場を持てるようになるまで継続された。8

サクラメント地区日本人いちご農業者組合の元指導者の話では、組合は一世農業家を代表して、卸売り会社といちごの一括納入契約を結んでいた。これにより組合は耕地と収穫に必要な資金を会社から借り入れることができ、それを個々の一世農民に分配した。借金はいちごが会社に出荷された後に清算された。このような組合の役割がなければ、資金や販売の面で力がなかった一世達は、農業はおろか日々の生活を支えていくのも難しかったはずである。9

しかし、相互協力と努力によって、カリフォルニア州在住日本人(約7万人)の半数以上が1919年には自分で農業を営むまでになった。驚くべきことに、彼らは州農業面積の1パーセントにあたる45万8,000エーカー余りで、全農業生産額の10パーセントにあたる5,400万ドル近くを生み出していたのである。10

その12>>

The Public Market of Los Angeles, California, 6th and Alameda Streets , August 1916. Gift of Masaru, Shigeru and David Masuoka, Japanese American National Museum (90.40.5)

注釈:
1.柳風。伊藤一男著、「北米百年桜」34ページ。
2. 福沢俊三郎。伊藤一男著、「北米百年桜」213ページ。
3. Yuji Ichioka著、The Issei: The World of the First Generation Japanese Immigrants, 1885-1924. 150ページ。
4. Don and Nadine Hata共著、“George Shima: The Potato King of California,” Journal of the West , 25, 1, (1986年1月)55-63ページ。
5. 佐藤利一インタビュー。Issei Christians 、44ページ。
6. Kaizo Naka著、“Social and Economic Conditions Among Japanese Farmers in California,” (カリフォルニア大学バークレー校修士論文、1913)23ページ。
7. 中川末子。伊藤一男著、「北米百年桜」587ページ。
8. John Isao Nishinoiri著、“Japanese Farmers in Washington,” (ワシントン大学修士論文、1926)34-35ページ。
9.  佐藤利一インタビュー。Issei Christians 、44ページ。
10. California Board of Control編、California and the Oriental (サクラメント、1920)

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」 (1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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