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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/2/7/issei-pioneers/

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その6

>>その5

1920年ストライキ

1909年日本人大ストライキの後の賃上げ以降、労働者の賃金は同水準に抑えられたままであったが、その一方で生活費は相変わらず上昇し続けた。第一次世界大戦が終結するまでに、生活費は実に45パーセントも上がっていた。1労働者たちは耕地経営者組合に対し、賃上げ、子弟のための保育所設置、ボーナス制度改革などの要求を提出したがすぐに拒否された。1919年頃には悪化する生活のなか、マウイ、カウアイ、ハワイ、オアフの島々に次々と労働組合が組織され、結局ホノルルに58人の労働代表者が集まり日本人労働団体連盟会が結成された。2

1909年の集団ストライキ当時、ハワイの日本人は耕地労働者人口の70パーセントを占める勢力を誇っていた。しかし、1919年には55パーセントにまで落ち込み、その代わり、フィリピン人労働者が23パーセントに増加していた。後からやってきたフィリピン人たちも、やはり労働条件には不満を持っており、ハワイフィリピン人労働組合(The Filipino Labor Union of Hawaii)を結成していた。

1919年12月6日、日本人労働団体連盟会とハワイフィリピン人労働組合は、別々ながら似通った要求を耕地経営者組合に送り付けた。その内容は、日給77セントから男性1ドル25セント、女性95セントへの賃上げ、8時間労働、ボーナス制度改善、超過勤務には賃金倍増、産休の有給化、請負砂糖きび栽培者への利益分配率増加、厚生レクリエーションの充実などであった。

要求に合わせて日本人労働団体連盟会は次のように訴えた。「ハワイは太平洋の楽園で、有数の砂糖生産国だとして知られている。しかし、そこでは何千もの人々が熱帯の焼けるような太陽のもとで、工場や耕地の10時間に渡る過酷な労働に従事しながらも、77セントというわずかな報酬に泣いていることを人々は知っているだろうか。」3

ストライキは、まずフィリピン人労働組合によって始められた。1920年1月19日、オアフ島の5つの耕地で、3,000人のフィリピン人が職場を放棄した。4そしてただちに、フィリピン人指導者たちは日本人労働団体連盟会にも協同歩調をとるべく訴えた。「この度のストライキは日本人が労働運動の理念にのっとり、他国人と共に協調し連帯して戦う意思が有る事を、天下に知らしめる絶好の機会である。(中略)我々は、肩を並べてこの戦いに臨むべきなのである。」5これを受けて日本人社会の中にも、邦字新聞各社を筆頭に、国籍、人種、肌の色を超えてフィリピン人労働者支援の連帯行動を求める主張が強くなってきた。

やがて、2月1日、日本人労働者はアイエア、ワイアルア、ワイパフ、エワ、ワイマナロ、カフクなどオアフ島内の各耕地で大挙して職場を放棄し、フィリピン人ストライキに合流した。そして、2月末までに5,300人の日本人と2,800人のフィリピン人がストライキに参加した。その規模は、オアフ島の全労働人口の77パーセントを占めるほどであった。

「いったい、ハワイはアメリカ人が統治しているのか、それとも外国人が統治しているのか?」と英語新聞は書いた。「ホノルルスターブリテン」紙と「パシフィックコマーシャルアドバイザー」紙などは、ストライキが始まるや否や、日本人がハワイ諸島を「日本化」しようと企んでいると非難した。

そして、耕地主たちはストライキ参加者に48時間以内に仕事に戻るか耕地を出て行くか通告し、最終的に1万2,000人を超える日本人とフィリピン人労働者,及びその家族が耕地内の住居を追われ、多くは一時的にホノルルに避難した。

ストライキが長引くにつれ、参加者達の気持も次第にぐらつき始め、一方でスト破り労働者や新しいフィリピン人移民が耕地に導入されるようになった。ストライキは6ヶ月続いたが、結局、農園経営者側がいかなる改革も約束しないまま結末を向かえた。しかし、その損害は甚大で1,200万ドルにも達した。また、日本人社会も20万ドルを失う結果となった。

1909年と同様に、今回も表向きは耕地経営者側が勝利を宣言した。しかし、その3ヶ月後には50パーセントの賃上げ、月払いボーナス制の導入、福祉、余暇施設の改善を余儀なくされた。

労働組合指導者やその関係者たちは、今後の闘争に勝利するためには全ての国からの労働者が人種に関係なく参加できる統一労働団体組織が不可欠であると考えた。その20数年後、「一人の傷は皆の傷」のスローガンのもとに、国際港湾倉庫労働者組合(International Longshoremen's and Warehousemen's Union)が、ハワイの全耕地労働者を支援する運動を起こした。1946年11月18日、78日間続いたハワイ全土に及ぶストライキの結果、遂に労働者たちは要求以上の賃上げを勝ち取ることに成功したのである。ここに至り、ハワイにおいて初めて労働者階級が耕地経営者から完璧な勝利をおさめたのである。

その7>>

注釈:
1.  Kotani、前掲書、34ページ。
2. 日本人労働団体連盟会は、1920年4月に「ハワイ労働者協会」と変名した。
3. Wakukawa、前掲書、241ページ。
4. ストライキの発生した5つの耕地とは、アイエア、ワイパフ、エワ、ワイアルア、カフクである。
5.  Kotani、前掲書、48ページ。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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執筆者について

アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新

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