前編>>
日本の料理も人気だった。平日の朝の番組なので主婦のリスナーが多かったが、男性も興味あるということが分かった。
ブラジル人は大豆を使う料理に関心をもっているので、おからのケーキを紹介した。ほかに材料はブラジル人がよく使っているバナナとフバ(トウモロコシの粉)。レシピの紹介が終わると、すぐに電話が掛かってきた。「すみません、材料をもう一度教えてください。妻は留守です。帰ってきたらこのケーキを食べさせたいんです」と。「わぁ、なんて優しいだんな様」と、わたしは微笑んだ。
チンゲンサイの炒め物も紹介した。その時、隠し味にオイスター・ソースを使うとよりおいしくなると言った。数日後、朝市で野菜を買っていると、八百屋の店主が、「さっき、チンゲンサイを買いに来たおじさんがね、番組でレシピを教わったと言っていたよ」「そう!よかったわ!」とわたしはうれしくなった。「何とかソースってどういうもの?」と店主は突然聞いてきた。「あれは隠し味。少し入れるとずっとおいしくなるのよ」「おじさんは初めてその『何とかソース』を買って料理を作るんだって。すごく楽しみにしていたよ」わたしは感動した。
ラジオってすばらしい!もちろん、わたしも心を込めてものを伝えていたが、同じように視聴者も熱心に受け止めてくれていたのだ。
週に1回は必ず電話を掛けてくるファンがいた。その人はアラブ系の女性で日本文化に関心を持っていた。話題は「緑茶」、「豆腐」、「焼きそば」、「鍼」などだった。しかし、ある日、心配そうな声で電話してきた。「もしもし、アサショウリュウに何があったのですか?」と急に聞かれた。
「すみません、もう一度・・・」「アサショウリュウです。私も、夫も二人の息子もみんな大ファンです。なぜ出場していないのですか」
驚き、唖然。相撲にぜんぜん興味がないわたし。「あの、最近テレビ見ていないので調べてみます」と。その日も次の日もNHKのニュースと相撲のトーナメントを見た。日本の友人にも詳しく説明してもらった。ようやく事情が分かり、ファンにきちんと答えられた。彼女はとても残念がって、「あんなカワイイ相撲取りはいないわよ」と。
ほかの番組を担当していた同僚から『言葉当てクイズ』の問題を頼まれた。日本語の言葉の意味が分かった視聴者にハガキか電話で回答してもらい、抽選で2名にCDをプレゼントするキャンペーンだった。昔、この地域は日本人の入植地だったので、少し難しい言葉の方がいいと言われ、わたしは『勝利者』という言葉を選んだ。
1ヶ月の間、応募のハガキはあまりこなかったが、電話はひっきりなしに掛かってきた。
その電話の受付をしていた人からとても面白い話を聞いた。電話してきたのはブラジル人の男性で、かなり怒っていたそうだ。「CDがもらいたいから、隣り近所とか、知り合いの日系人に聞いたのに、だれも分からなかった。私は考えたんだ。もっと勉強をしている人だったら日本語が分かるはずだ。わざわざ日系人の医者を選んで、診療所に行った。診察が終わってからあの言葉の意味を尋ねたが、日本語が分からない医者だった。あぁ、損した!」
ラジオ局を訪れるファンもいた。農村のファンからはもぎたての果物やコーヒーをいただいた。子どもたちは『ラウラ・ホンダ』に会って、嬉しくてキラキラした目でわたしを見つめていた。コミュニティーラジオ局ではアナウンサーが一人で何もかもこなさなければならないので、子どもにはスーパーウーマンのように見えたかも知れない。
街を歩いていても、時々『ラウラ・ホンダ』と声をかけられることがあった。
ある時、わたしが居た満員の店に、一人の男性が突然飛び込んで来た。「母を迎えに行く途中ですが、通りかかったら『ラウラ・ホンダ』だと分かったので、車を止めて、ちょっとご挨拶に来ました。毎日、欠かさずに聞いています。いつまでも元気でいてください」と。その後、店にいた他の客も次々と声をかけてくれた。
最後に、『オハヨウ・ボンディア』の由来について。番組の題名を考え始めていたころ、同じアパートに住んでいたおばちゃんとエレベーターで会った。わたしは「ボンディア」と挨拶した。すると、イタリア系の青い目のおばちゃんは微笑んで「オハヨウ」と言った。そのとき「オハヨウ・ボンディア」という言葉が頭に浮かんで、番組の題名になったのだった。
「オハヨウ・ボンディア」のおかげでとても楽しくやり甲斐のある仕事をさせてもらった。しかし、訪日の話が突然もちあがり、日本に2年はいるつもりだったので、2007年末に番組を終えることにした。そこから、わたしのデカセギ・ストーリーが始まった。このことについては、またいつか書いてみたい。
© 2011 Laura Honda-Hasegawa