ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/12/15/visitando-miyagi/

震災後の宮城県を訪問

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2011年3月11日14時46分(日本時)、三陸沖を震源に、日本国内観測史上最大マグニチュード9.0の巨大地震が発生、大津波が東北太平洋沿岸地域の町、生活、生命を奪い去り人々の胸に消すことのできない傷痕を残しました。私は宮城県出身でメキシコ在住の画家であり、宮城県人会、メキシコ宮城青葉会副会長も努めております。半年経過しましたが、この東日本大地震のことは深く脳裏に焼き付け決して忘れないようにしたいです。

深夜の緊急電話連絡で事態を知り、インターネット上の報道に釘付けのまま、仙台、石巻、南三陸、気仙沼、陸前高田、宮古など、良く知る市町村名と共に表示される「壊滅、崩壊」の文字や、増加する一方の死者行方不明者数に、唖然とするばかりでした。

その日12日は女性アーティストグループ「竜舌蘭の花」による展覧会(日墨協会)の初日でした。千年に一度という自然災害、加えて放射性物質が拡散、という日本の深刻な危機を前に、遠いメキシコで私はいったい何をしているのか。繰り返しの悲惨な報道、追い討ちをかける様な寒波の中で被災者はどんなに辛いだろう。通信不能のまま、情報を待つだけの数日、第二次大戦を生き延び85歳になる私の母が気掛かりで、言い難い焦燥感が募りました。アートで、今何ができるのだろうか。自分への問い掛けが続きました。

同日、青葉会は被災者への募金活動を開始し、会員連絡網での情報発信、臨時集会と、敏速に行動しました。特記したいのは、一中学生が彼の学校の各教室を回り、多くのペソを集めたことです。メキシコの児童生徒の「日本を孤立させない」という温かい気持ちが伝わってきて感動しました。

また150x150cmの布、中央に青空、そこにメキシコの素朴な布人形を配して、周囲に日本語やスペイン語(日本語訳付)で応援メッセージを書き込みも公に始めました。メキシコの元気で被災者を励まし、彼らの前進に向けてずっと支援し続けることを目指しました。私は、次々に届けられる素晴らしい言葉に驚きながらも、夜を徹して人形、サボテンの花の絵を描き込み、12枚に増えた布は、多くの学校や集会、イベントを回り、実に多くの人々が日本に愛情をかけて下さるのが理解され、うれしく感じました。

メキシコからの応援メッセージ

青葉会最終臨時集会の募金集計で124,933.77ペソとなり、直接、被災者を援助するという計画通り、仙台、石巻、気仙沼の三市に義援金として振り込むことにしました。布12枚も持ち、日墨協会イベント「子供の日」の翌日、5月16日、私は日本へ出発しました。

大地震後2ヶ月以上経過していましたが、余震が続き、東北新幹線はスピードを落として運行し、仙台駅で出迎えてくれた松木さん(2010年7月アカプルコで新設の日本広場へ支倉常長像移動の際の仙台市からの通訳者)と共に、義援金の銀行振り込みを終え、まずは一息。仙台のホテルは支援者や被災者が宿泊中なのか、あるいは地震で破損したのか空室がなく、JRのローカル線は間引き運転で時間がうまく合わず、道路は何とか気仙沼に通じるので、バスを探し、そのまま旅を続けました。岩手県内陸の美しい日本の初夏の景色、車窓から山吹や藤の花が見え隠れして、昔のままの自然に疲れた心が和みました。

私は被災地の家族の無事をNHKニュースで偶然に知るという、幸せな瞬間を得た、数少ないひとりです。震災当夜の炎上した故郷の映像を見てから、ずっと絶望感に覆われていた私にはその画面内の生きている母の姿は真にうれしくて、でも数日後に電話が通じるまで錯覚ではなかったかと思ったりしました。

やっと到着した実家には被災して家を失った妹家族も同居しており、あまりにも残酷で悲しくて怖い話をたくさん聞くこととなりました。

気仙沼市役所、教育委員会、気仙沼小学校と訪問し、まだ激務が続く現場を知り、瓦礫の山と隣り合わせの日常の困難を知り複雑な思いでしたボランティアの人々が行き交い、物売りの屋台が並び、「がんばれ」の看板文字が垂れ下がる街は、熱気が感じられるけれど、不安が漂うのはなぜでしょう。被災者カードで支援物資を配られるけれど、本当に欲しい物は手に入らない。地域新聞の半ページは死亡記事。死体確認が難しいという。

泥水が残り異様な臭気の蔓延する被災地域を毎日見て回りました。巨大津波にかき回されて廃墟と化した海岸沿いの商店街、奔流となり川を逆流し、川土手の桜並木をなぎ倒し、家をのみ込んで行った痕跡が私の目前に広がっていました。風光明媚な観光名所、太平洋に突き出た有名な潮吹き穴は無事だったらしく、空高く潮が舞いあがっていましたが、周辺の樹齢百年以上もありそうな松林や、人家は無残な姿でした。故郷の美しい自然を誇りに思っていた私は、もうひとつの自然の面も見せ付けられて、自然に対して常に畏敬の念と愛情を持つことを心にしました。

東京に住む青葉会前会長の武田アレハンドロが家族(奥様が駐日メキシコ領事兼文化担当官と小3の息子)連れで、「ピニャタで地震津波見舞い」をする計画でやって来ました。気仙沼小学校、荻の浜小学校(石巻)の2校に申請し、私もメッセージ布を持ってデモストレーションすることにして、5月30 日、台風2 号日本上陸の雨と風の中、車を進め実行して回りました。交流は、メキシコとピニャタの歴史を紹介し、日系移民についても簡単に説明し、ピニャタ割りの実演開始となります。だんだん力を込めて叩き、夢中になって行く彼らを見て「来てよかった。」と感じました。

沿岸を南下して宮城県慶長使節船ミュージアムを訪問、1614年に支倉常長一行がメキシコへ向けて太平洋横断時に使用した帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の実寸大レプリカが停泊しています。今回の津波では損傷が少なかったのですが、4月の強風でメインマストが折れました。下の展示室は破損し、流された資料もあり、現在休館中です。

宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン・バウティスタ号」の実寸大レプリカ 「2011年3月11日撮影」。右の写真は津波の前。

仙台市では、県庁、交流協会(MIA)、市役所を訪問し、12枚の布を広げて、メキシコからの応援メッセージを伝えました。被災者に向けて優しい思いやりある言葉、日本人の勇気を信じての復興への励ましの言葉などで埋められた布は、メキシコのエネルギーに溢れています。愛らしい絵も好かったらしく、どこへ行っても皆さんに喜んでいただけました。

最近になって「サンファン館」の須藤さんから「県庁から12枚の布が届きました。これからのイベントで使用させていただきます」とメールがありました。

メキシコからの応援メッセージは有効に展示されていくでしょう。どうぞ機会があったら訪ねて行って見てください。

復興への長い道程に寄り添い、支援を継続する心を持ち続けたいものです。

*本稿は日墨協会のニュースレター『Boletin Informativo de la Asociación México Japonesa』151号(2011年9月)からの転載です。

© 2011 Midori Suzuki

メキシコ 地震 宮城県 日本 本州 東北地方太平洋沖地震(2011年) 東日本大震災
このシリーズについて

人と人との固い結びつき、それが、「絆」です。

このシリーズでは、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震とその影響で引き起こされた津波やその他の被害に対する、日系の個人・コミュニティの反応や思いを共有します。支援活動への参加や、震災による影響、日本との結びつきに関するみなさんの声をお届けします。

震災へのあなたの反応を記事にするには、「ジャーナルへの寄稿」 ページのガイドラインをお読みください。英語、日本語、スペイン語、ポルトガル語での投稿が可能です。世界中から、幅広い内容の記事をお待ちしています。

ここに掲載されるストーリーが、被災された日本のみなさんや、震災の影響を受けた世界中のみなさんの励ましとなれば幸いです。また、このシリーズが、ニマ会コミュニティから未来へのメッセージとなり、いつの日かタイムカプセルとなって未来へ届けられることを願っています。

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執筆者について

宮城県出身。1971年武蔵野美術大学の油彩科を卒業後、1975年にはスペイン・グラナダにてアートを学ぶ。 数多くの個展や展示を行ってきた。メキシコ在住24年。画家として活躍する傍ら、メキシコ宮城青葉会の副会長を勤め、日墨会館のメンバーでもある。

(2011年12月 更新)

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