ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

culture

ja

日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

幻の文芸誌『收穫』-その4/4

その3>>

4. 英語による作品

『收穫』が二世の作品を掲載することによって二世の文学活動を促進し、二世文学者との交流を深めようとしたことは注目すべきことである。、このような試みは日系文学史において稀なことであった。山崎一心編『アメリカ文学集』(1937)に二世の英語の作品が10編収められていること、トパーズ収容所で発行されていた文芸誌『トレック』(Trek)第二号(1943)にトシオ・モリの短編『子供たちよ、明日という日はきっと来ますよ』の日本語訳が、また『南加文藝』第八号(1969)にヒサエ・ヤマモトの短編「十七文字」の日本語訳が載せられていることくらいである。

作品が掲載された二世は合わせて10名である。『カレント・ライフ』創刊号(1940年10月)は当時の主要な二世文学者たちとして24人の名を挙げており、イワオ・カワカミはその後、投稿欄でさらに18名を追加している(『カレント・ライフ』第二号)。これら42名の中で『收穫』に作品が載っているのはトヨ・スエモト、チエ・モウリ、ジョウ・オオヤマの3名にすぎない。トヨ・スエモトは3編の詩を寄せている。

作品は青春に関わるテーマ、具体的には恋、失恋、世と死などを扱ったものが多く、また全体として作品の完成度も高いとはいえない。詩の中ではトヨ・スエモトの作品が際立って優れている。彼女は西洋の伝統に立つリズムと脚韻を持つ詩を書き、自然の中に自己の心を詠み込む。「夏」(創刊号)がその良い例である。チエ・モウリの「こま」は教訓的で理屈が勝ち過ぎた詩である。

短編ではメアリ・コレナガの作品「チヨノの結婚式」(第三号)のテーマが面白い。代理結婚式での花嫁の心理を描いていて、扱い方次第では歴史性を持ち、奥行きのある作品になりえたものであるが、出来上がった作品は単調で厚みがないものとなっている。ジョウ・オオヤマの「かわる頃」(第五号)は思春期の少年の心理を描き、最後の一文における日本文化への評言がいかにもオオヤマらしく辛口になっている。イワオ・カワカミの「ブドウの取り入れ」(第三号)は軽い失恋物語である。

『收穫』における二世の作品世界は全体として、かなり限定されたものとなっており、社会や自己の在り方を見つめようとする作品の多い帰米二世の場合とはかなり異なっている。

5.『收穫』の意義

この雑誌の意義としてまずいえることは、これが全米規模の最初の本格的な文芸総合誌であったということである。『收穫』の同人は全米的な拡がりを持っている。その主力はロサンゼルスとサンフランシスコであるが、シアトルを中心としたワシントン州、フレズノがある中部カリフォルニア、コロラド州などの山東部、アイダホ州などの山中部、さらには首都ワシントンにも同人がいる。また文芸総合誌として今まで見てきたように、『收穫』の作品のジャンルは詩、創作、評論.随筆、短歌、俳句、川柳など多岐にわたっている。確かに当時、いろいろな同人文芸誌が俳句や短歌などの結社から発行されていたが、そのジャンルは当然のことながらその特定の分野に限定されていたし、また文芸総合誌として、それまで『マグナ』(1915年創刊)や、「嚇土(かくど)」(1927年創刊)もあったが、同人はごく狭い地域に限定されていて、ジャンルとしての総合性もきわめて小規模なものであった。これらの雑誌に比べると『收穫」は断然抜きんでているのである。さらに掲載されている作品の文学的完成度からいえば、これも既に見てきたように、それぞれのジャンルにおいて高い水準の作品が少なくないということが大きな特徴点である。このような意味で、『收穫』は本格的な文芸総合誌として太平洋戦争前の日系文学の一つの到達点を示しているといえる。

次に重要なことは、この雑誌の同人たちが当時の日系社会の世代的過渡期を自覚し、日系社会を構成する三つのグループ(一世、帰米二世、二世)の文学の統合に積極的な意味を見出し、その統合を定期刊行物という形で実現して、英語文学の点で不十分さがあるものの一応成功していることである。これは世代と言語を越えて共同で新しい日系文学・文化を創造しようとする試みであり、このようなことは日系文学史上、見られなかったことである。山崎一心編『アメリカ文学集』(1937)に一世、帰米二世、二世の作品があり、日本語と英語の作品が収められている。しかしこの文学は老いゆく一世の業績を文学の形で残したいという山崎個人の試みであって、組織体であり運動体である文芸連盟の『收穫』の未来志向とは大きく異なっている。

『收穫』がその後の日系文学の展開に繋がる重要な文学活動の拠点の一つであったことにも注意しておきたい。加川文一、泊良彦、森本田鶴子等はトゥーリレイク収容所へ行き文芸同人誌『鉄柵』で活躍し、この雑誌は戦後、『南加文藝』へと繋がっていく。また外川明、片井渓厳子等はポストン収容所で『ポストン文藝』に作品を発表し、大久保忠栄、高柳沙水等はハートマウンテン収容所で『ハートマウンテン文藝』の発行に力を尽くしている。1930年代に発行された『收穫』の意義として、少なくとも以上のような三つの点を認めることができるだろう。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shuppan

haiku issei japanese american kibei literature nisei poetry pre-war shukaku tanka

このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。