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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その3

>>その2

2.耕地生活と労働

19世紀中、最後に導入された労働移民であった日本人は、ハワイの耕地システムの最下層に編入された。1892年には、日本人は全労働力の65%を占めたが、賃金、住居ともに最低のものだった。熟練を要する仕事や監督者(ルナ)の仕事は、ほとんど全て白人に割り当てられた。1ハワイで日本語新聞を発行していた相賀安太郎は、白人耕地経営者と日本人労働者の格差が、徳川時代の大名と農民のそれより大きいことを指摘した。彼は、それがかつてのアメリカ黒人奴隷と白人の関係に似ていると考えていた。2

ハワイでは、生活環境がそのまま耕地における上下関係を反映していた。広々とした邸宅に住むアメリカ人、ドイツ人、イギリス人などの白人が社会の頂点にいた。その次には、小さいがきちんとした家屋に住むポルトガル人やスペイン人の耕地監督者(ルナ)がいた。ハワイ社会の一番下にいたのは、木造バラックのキャンプに押し込まれた日本人移民であった。3

1899年に耕地の視察を行った日本総領事は、本国への報告の中で、日本人移民の生活を具体的に伝えている。

あるキャンプでは、6家族が縦9メートル、横3メートル60センチ程の部屋に仕切りもなしに押し込まれていた。別の場所では、仕切りなしの大きなバラックに数百人の男女が一緒になって住んでいた。4段になった板の柵の様なベッドに彼らは寝ていた。一番下は夫婦者に割り当てられ、その他は独身者用だった。4

全ての耕地労働者には、従業員識別番号が支給された。金属製の番号札は、人種ごとに形が異なっており、月給を貰う際には、この札を見せなければならなかった。ある沖縄移民は自分の番号を簡単に覚えてしまった。「Thank you (ありがとう)」と発音する要領で、自分の番号「3939」を暗記したのだ。5

1917年に写真花嫁としてハワイに来た田沢ハルノは、毎朝4時15分の起床サイレンが鳴り響く前に、既に目を覚ましていた。彼女は、焚火で米を炊き、夫長蔵と自分の弁当を作っていた。漬物、梅干し、煮野菜のおかずにご飯が毎日の食事であった。ハルノは二段重ねの弁当箱に食事を詰めると、1ガロンの水とともにデニムの袋に入れ4時半には家を出た。毎朝、彼女は列車で1時間15分もかけて砂糖きび耕地まで通っていたのである。

 

C. Brewer's Honolulu plantation mill (1898-1946) Aiea, Oahu, ca. 1910. Gift in Memory of Mrs. Tome Yoshida, Japanese American National Museum (91.90.154)

仕事に行くとき、ハワイの焼けつくような太陽と刃物のように鋭い砂糖きびの葉から身を守るため、ハルノは何枚も重ね着しなければならなかった。彼女の説明によれば、まず股引をはき、次に脚袢、かすりの上着、ダンドルスカート、そして日差しとほこりから顔と髪を保護するため、頭からすっぽりと木綿の手拭いをかぶった。さらに、黒い帯を二重に腰に巻付け、手袋のように荒れた手にも布を巻いた。最後に、麦わら帽子をピンで留め、漂白した米袋を三角に折って帽子の上からかぶり顎の下で結んで留めた。6

耕地労働者は、普通20人から30人のグループに分けられ、それぞれが伐採、植え付け、灌漑、除草、肥料散布、さらにトロッコ、荷馬車、桶などで砂糖きびを工場まで運ぶ仕事を担当した。耕地で働く女性たちは、鍬入れ、砂糖きびの葉取り、刈り入れ、あるいは肥料散布に従事した。ハルノは、いつもバケツ何杯もの肥料を運び、均等になるようにはたけに蒔いた。しかし、ハルノは他の日本人女性労働者同様、耕地賃金体系の最下層に属していた。1915年当時、日本人男性労働者は日当78セントを受け取っていたが、女性は55セントだけだった。

このような待遇のもとで、女性労働者たちはホレホレ節を歌いながら働いた。ホレホレ節は、伝統的な日本の民謡をもとに移民たちが作った労働歌である。

ハワイハワイと来てみりゃ地獄 
ボーシ(ボス)が閻魔でルナは鬼8

ルナと呼ばれた現場監督は、常に労働者のまわりで監視の目を光らせ、できるだけ多くの仕事をさせるため、時には鞭を使用することも厭わなかった。 そのため、一世たちはルナを大変怖がり、その暴力を避けるため男も女も懸命に働いた。9

5時間の重労働の後、サイレンが鳴り響き「カウカウタイム」という声がかかった。 労働者たちは、次に 「仕事タイム」という声がかかるまで、30分で昼食をすませた。 耕地での仕事は午後4時半まで続いた。 労働者の一人、大城カクスケは「パウハナ(終業時間)」のサイレンが鳴るやいなや、誰よりも早く畑を駆け抜け家に向かった。 耕地では、一つの風呂に皆一緒に入ったので、最後になると湯がとても汚れていた。 彼は、それが嫌で急いで帰ったのだ。その甲斐あって、皆が戻る頃には、彼は既に風呂から上がっていた。10

移民たちの耕地生活が始まった頃、女性は少なく、賭博などがはびこっていた。1886年から1888年まで在ハワイ日本総領事を務めた安藤太郎の報告によると、ほとんどの労働者は一日の厳しい労働の後、戻るべく家庭も無くその寂しさをまぎらわすために、賭博、飲酒、売春婦との交際に耽っていた。111908年から1920年にかけてやって来た「写真花嫁」によって男女の人口差は多少縮まったが、世紀が変わるまでは女性一人に対して男性4人という比率であった。

一家の収入を補うために、多くの女性は耕地のキャンプに生活する独身男性のために縫物、料理、洗濯などを引き受けた。田沢ハルノも例外ではなかった。彼女は耕地で10時間働いた後、独身フィリピン人労働者の洗濯をしたが、それでも生活は楽にならなかった。 次のホレホレ節はその事情を反映している。

カネ(夫)はカチケン(砂糖きび切り取り) 
わしゃホレホレよ(砂糖きびの枯れ葉除去) 
汗と涙の共稼ぎ12

一世労働者は、畑仕事より工場で働くことを好んだ。工場の仕事は、畑仕事より労働時間は長かったものの、賃金は高く仕事もそれほどきつくなかったからである。13

工場では刈り取られた砂糖きびを洗浄し、それをつぶして液を抽出した。 抽出液は煮沸処理の後、濃縮してから砂糖に晶化され、袋詰めの後カリフォルニアの精糖工場に送られた。工場の労働者を管理していたのは機械技師やその他の専門家で、彼らはエンジン、ボイラー、釜、圧縮機などを扱っていた。また、大工、電気工、鉄工、機械工も砂糖きび農園を運営する上で必要な役割を担っていた。

ハワイでの契約労働執行上の法的基盤は、1850年制定の労働法にあった。それによると労働者は3年から5年の労働契約に縛られ、契約未了の場合は投獄、罰金、あるいは契約を延長されるなどの罰則を科せられた。

このような厳しい法律にもかかわらず、一世のなかには過酷な耕地労働から逃げ出すものも少なくなかった。普通、脱走者らはハワイ島のコナを目指し、耕地経営者や保安官、また賞金稼ぎの追っ手を逃れるため、名字を変えた者もいた。14ハワイで契約労働が禁止される1900年まで、労働者の脱走は耕地主にとって無視できない大問題であった。

その4>>

注釈:
1.1904年、技術職は「アメリカ市民か帰化可能外国人」のみに限ることが決議された。これにより、連邦法で「帰化不能外国人」とされたアジア人は自動的に技術職から除外された。
2.James H. Okahata著、A History of Japanese in Hawaii、123ページ。   
3.1900年以前、ハワイの住宅法は耕地労働者一人当たり、約8.1立方メートルの空間しか保障していなかった。
4.Roland Kotani著、The Japanese in Hawaii: A Century of Struggle、16ページ
5. 東風チョウソク、インタビュー。Uchinanchu、431ページ。
6. 田沢ハルノ、1984年1月15日、バーバラ・カワカミによるインタビュー。
7. 「ホレホレ」とは、ハワイの言葉で乾燥させた砂糖きびの葉のことをいい、「節」は日本語でメロディーのことである。
8. Kotani、前掲書、14ページ。
9. 山内ツル、インタビュー。Uchinanchu、495ページ。
10. 大城カクスケ、インタビュー。Uchinanchu、382ページ。
11. 王堂フランクリン、篠遠和子共著、「図説ハワイ日本人史1885~1924」、76ページ。
12. Kotani、前掲書、13ページ。
13. テルヤ・コスケ、インタビュー。Uchinanchu、524ページ。
14. 塚原寅七、インタビュー。Uchinanchu、1270ページ。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

 

© 1992 Japanese American National Museum

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