ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

ロサンゼルスに根付く、ウチナーンチュ・ジャーナリズム - その3

その2>>

比嘉さんや金城さんのウチナーンチュ・ジャーナリズムは、いわゆる、沖縄の外、世界に散らばるウチナーンチュを対象にしたものだ。しかし、当銘貞夫さん(68)のウチナーンチュ・ジャーナリズムは、沖縄の人々に向けてアメリカのウチナーンチュの活動を伝えている。「自分の書く記事で、沖縄とアメリカをつなげたいと思っているんです」と当銘さん。しかしながら、当銘さんが思い描くようなジャーナリズムの機会はなかなか訪れず、当銘さんが物書きとして成功を収めたのは、渡米から30年を経てからのことだった。

当銘さんは、沖縄本部町生まれ。短大進学のため18歳で上京し、その後、学習研究社で働き始める。しかし、5年ほど働いた頃、当銘さんはいわゆる「行き詰まり」を感じたという。「日本の会社社会で成功するためには、有名大学の学歴がないとダメなんですね。僕には無理でした」

1969年、28歳の当銘さんは機会を求め渡米、ロサンゼルスに移り住んだ。地元のグレンデール・コミュニティ・カレッジでジャーナリズムを専攻。その後、ジャーナリストとなることを夢見てカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に編入するも、壁に突き当たった。「大学のアドバイザーに専攻の相談をしたら、ジャーナリズムじゃ食べて行かれないだろうって言われてしまったんですね。もっと実用的な会計とかを勉強するように勧められたんです」しかし、当時家族を抱えていた当銘さんではあったが、アドバイザーの忠告には従わなかった。

その大学も、当銘さんは永住権を取得するために中退。そして、ロサンゼルス西部でマーケットを始めたが、再三、強盗にあったため、当銘さんはマーケットのビジネスを売却、造園業を始めた。しかし、こうした生活のなかでも当銘さんの書くことに対する情熱は消えることがなかった。

毎朝4時に起床する当銘さんの毎朝一番の日課は、地元紙、ロサンゼルス・タイムズとロサンゼルスを拠点とする日英語紙、羅府新報の記事全てに目を通すことだ。こうした日課を続けるうちに、当銘さんはあることに気がついたという。それは、ウチナーンチュの文化・芸能、とくに若い世代の沖縄人について語る記事があまりにも少ないということだ。

「私がアメリカに移り住んだときは、とても円安でした。ですから、我々新一世にとって、ここでの生活は楽ではなかった。今でこそ、沖縄県人会の諸行事・諸活動がメディアで報道されていますが、当時はそういうことがほとんどなかったんですね」と、当銘さんは語る。

同胞の成功のみならず、若いウチナーンチュの活躍を伝えたい、そんな気持ちが当銘さんを突き動かし、10年前、当銘さんは、ロサンゼルス近辺で活躍するウチナーンチュの記事を琉球新報、羅府新報に投稿し始めた。「アメリカで成功したウチナーンチュの事を書くことによって、彼らの力になりたかったんです」

それでも、まだ当銘さんは満足しなかった。アメリカに来て以来、出版を目的に日本語を書くことが殆どなくなった当銘さんは、日本語の文章の構成について、学び直さなければならなかったという。59歳にして、日本語作文の通信クラスを取り始め、ロサンゼルスの大学に留学する日本人学生を捕まえては、文章の書き方を教わったという。自分の孫の年ほどの学生に日本語の文章を教わることについて、「いつも、新しいことが学べて楽しい」と、当銘さんはあえて前向きだ。そして、今から8年前、念願叶って、当銘さんは琉球新報から正式に現地通信員として採用された。 「とても嬉しかったですねぇ。夢が叶ったわけですから」

ウチナーンチュの有名ピアニストから、沖縄について研究する学生まで、当銘さんの取材対象は幅広い。これまでの記事は「アメリカに生きる」という一冊の本にまとめられ、日本エッセイスト・クラブ会員にもなり、今や当銘さんはロサンゼルスのウチナーンチュ社会ではちょっとした有名人だ。

芥川賞作家の大城立裕氏が当銘さんの本を読んで「印象が深いのは、沖縄の若者たちが、アメリカで学業に励んでいる様子の記事が多く、それがよく書けていることです。昔なら実業での『成功』の話が多かったのでしょうが、近年では学問、文化の成果が尊重されるのを知って、嬉しく思います」と当銘さんに手紙が寄せられたそうだ。

山里勝己琉球大学副学長は当銘さんの本の書評で「氏の『渡米当時の思い出』というエッセーは、一人の沖縄の青年が、どのようにアメリカ社会で人生を築いて行ったかという事を描いた作品。読者は、抑えた筆致で描かれたこのような氏自身の人生の描写から、『アメリカ』の意味をより深く学ぶことができるだろう」と琉球新報に書いている。

今年の三月の末、ロサンゼルスを一望するロサンゼルス市庁舎の27階に当銘さんの姿があった。ロサンゼルス市庁舎ではこの日、日系人の功労者を表彰するレセプションが開かれており、O.J. Simpson裁判で判事を務めたランス・イトウさんなどが招待された。当銘さんは興奮を隠しきれない。「もし、通信員の仕事をしていなかったら、ここに集まっている人たちに近づくことすらできなかったと思います。先日記事にした二世クイーンのデイナ・フジコ・ヘザートンさんに話しかけるなんて絶対にできなかった。いろんな人と会って話をすることが私の若さの秘訣です」

* * * 

この3人のウチナーンチュによって開拓されたジャーナリズムは、ロサンゼルスの日系人社会から大きな支持を受けている。特に、視聴者が購読ベースの比嘉さんのラジオ番組は、大成功だという。「ロサンゼルス郡の在留邦人が15万人。そのうち現在、3万人のリスナーがいると思います。もし、CDのミリオンセラーを成功ととらえるのならば、かなり多くのリスナーがいるこのラジオプログラムはかなりうまくいっている例と言えると思います」とTeam J Stationの山川社長は語る。

しかし、こうしたウチナーンチュ・ジャーナリズムも「後継者育成」という大きな問題を抱えている。

「何人か、後継者を育てるように訓練をしたんですが、なかなか、出版するレベルで書けるような人は見つからないんです」と当銘さん。

比嘉さんも当銘さんに同調する。「私の足腰が立つうちは、ラジオ番組を続けたいと思っています。現在46人ウチナーグチの生徒が居るんですが、まだ誰も合格レベルで話せる人がいません。それでも、5、6年の内に、ラジオプログラムを譲れるような人材が育てばいいなと思っています」

その上で、比嘉さんは、もっと若い人を引きつけるようなプログラム構成を考えなければならないとも語る。というのも、比嘉さんの元に届くファンレターの殆どが、50代以上のリスナーからだ。「若いウチナーンチュ世代にウチナーンチュの誇りを感じてもらえるようなプログラムを作っていきたいです」と比嘉さんは語る。

金城さんには後継者はいない。「五大州は財政面では全く問題はありません。けれども手術を受けて以来、家族が私の健康を心配して、新聞発行の継続に反対なんです。だから、これからはこれまで以上に健康に気を遣わなければならないな、と思っています」と語る金城さんは、脳活性化のために、毎日を英単語を1つ覚える事を2010年の目標としたという。

後継者問題に悩みながらも、3人とも、これまで築き上げてきたウチナーンチュ・ジャーナリズムに満足しているという。

「大学ではジャーナリズムの勉強は充分できませんでしたが、今ではアドバイザーの指示に従わなくて良かったなと思っています。だって、小さいかもしれないけれど、私なりのジャーナリズムというものを確立することができましたから」と当銘さんは語る。(了)

言語保存に興味のある方々へウチナーグチを教える比嘉さん。

*当銘貞夫さんは、ディスカバー・ニッケイにも寄稿しています。
 彼のエッセイはこちら>>

© 2010 Ayako Mie

california journalism Los Angeles NikkeiMedia okinawa Sadao Tome uchinanchu