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日系アルゼンチン人の会 -ゲートボールで活気・世界的な視野で活動展開-

南カリフォルニアで活動を展開している南米の日系人らの組織として、ペルーの他に、アルゼンチンの日系人らのグループがある。母の日や父の日、あるいは米国の独立記念日などにアルゼンチン版のバーベキュー(BBQ)である「アサド」をしたり、北米沖縄県人会の運動会の国別対抗競技に出場するなどして、親睦を深めるとともに、仕事の面で助け合ってきた。アルゼンチンは「ガウチョ(牧場労働者)」で知られる国で肉料理には定評があるだけに、「アサド」にはいつも大勢集まったものだった。

しかし近年、メンバーの高齢化や居住地区の拡散化で集まる人の数は次第に減少。そんな時、一部の会員からゲートボールが紹介され、それが人気を集めて、会としての勢いを盛り返した。と言うより、アルゼンチンの日系人がメンバーの大半を占めるゲートボールの会として新たに出発したと言った方がいい。だが、そのゲートボールの会にしても、ここ数年は参加人数が少なくなってきている。現在もメンバーらが協力して「アサド」を催しているが、ペルーの日系人のグループ同様、メンバーの確保と新メンバーの加入促進が今後のカギと言えそうだ。

2009年の米国独立記念日(7月4日)にグレンドーラの公園で開かれた「アサド」のピクニック

8割が沖縄出身かその子孫

南米諸国からの日系人の近年の米国移住は、基本的に居住国の経済的な状況が原因となってきた。アルゼンチンの場合はもう一つ、戦争という大きな要因があった。英国を相手に戦った1982年のフォークランド紛争(アルゼンチンではマルビナス紛争と呼ばれる)である。アルゼンチンの軍事政権が内政の行き詰まりから国民の不満を逸らすために開戦したとされているが、そうした状況下、80年から85年にかけて、日本への「出稼ぎ」を含め、多くの日系アルゼンチン人が国外に流出した。

アルゼンチンの日系人口は約3万5000人とされる。定住した日本人移民の第一号は1886年のこととされており、それから日本人のアルゼンチン移住が始まるが、ブラジルのような集団労働契約に基づく移民ではなく、ブラジルやボリビアなど隣国からの転住や呼び寄せが大半だったという。

第二次大戦ではアルゼンチンが日本に対して宣戦布告したためにアルゼンチンの日系人らの財産が凍結されたり、日本語学校が閉鎖されるなどしたが、戦後に移住が再開される一方、日系の二世や三世の多くが高度教育を必要とする職業に就くようになっている。

そうした日系人口の約8割が沖縄出身者かその子孫。そのため、米国に移住した日系アルゼンチンの中には沖縄系が多い。

「AJA」から「デイゴ」へ

南カリフォルニアに来た日系アルゼンチン人には、サンゲーブルバレー方面に居を構える人が少なくなかった。ウエストコビナ、グレンドーラ、ダイヤモンドバー、ウィティア、ウォルナット、ハシエンダハイツなどだ。そうした人たちが休日や祭日に集まって、アルゼンチン独特の「アサド」を一緒に楽しむ。そんな中から1990年に誕生したのが「AJA(アメリカン・ジャパニーズ・アルゼンティニアン)」というグループだった。ただ、特に役員などは置かず、何かある時に声を掛け合って集まるという、緩やかな会だった。それでも、その中心的な存在として、率先して会をリードしてきた人がいる。ウォルナットに住むタイラ・シゲルさんである。

タイラさんは1952年、アルゼンチンのブエノスアイレス州ブルサコ出身の沖縄系二世。フォークランド紛争があった82年、日本へ行き、神奈川県の平塚で働いていたが、翌83年、東京でペルーの首都リマ出身のエミリアさんと会い、結婚。いったんアルゼンチンに戻ってから88年に米国に来た。アルゼンチンで造園の仕事をしていたことで、米国でも造園業と庭園業で忙しくしてきたが、その間に、後から来たアルゼンチンの日系人らに仕事を教える労もいとわなかった。

南加では当時、ペルーの日系人らで組織する「ペルー二世協会(PNA)」がまだ広く活動を展開しており、同じスペイン語を話すということ、そして、個人的にも妻のエミリアさんがペルー出身ということで、PNAとAJAとで一緒に活動することもあった。

その後、PNA同様、次第に活動に参加する人が減っていったのだが、そんな時、アルゼンチンからゲートボールを持って来ていた人たちが、アサドの集まりの際にゲートボールを紹介。これが人々の関心を引き、大勢の人たちがゲートボールを始めた。そして、その勢いで94年に南加ゲートボール協会に「ガウチョ」の名前で加盟。その後96年に投票で「デイゴ」に改称した。沖縄の県花「梯梧(でいご)」にちなんだ命名だった。この時点で役員を置くようになったという。

世界選手権大会で3位

ゲートボールをアサドの際などに紹介したのは、当山勝正さんと山城吉清さんだった。

当山さんは沖縄県出身。最初ボリビアに行き、それからアルゼンチンに20年。1991年にアメリカに来た。その後AJAのことを知って、アサドや沖縄県人会の運動会に参加していたが、アルゼンチンにいたときから楽しんでいたゲートボールをみんなにも知ってもらいたいと、紹介したのだった。そして、毎週のように集まって練習するようになった。活動が年に数回というAJAには及びもつかない頻度である。

その後、南加ゲートボール協会が1996年にハワイのゲートボール協会と一緒になってUSAゲートボール連盟を創立、世界ゲートボール連合(本部・東京)の傘下に入ったことから、「デイゴ」にも4年ごとに開催される世界選手権大会出場の可能性が出るなど、活動の視野が一挙に拡大。こうして、ゲートボール熱もどんどん上がっていった。そして、98年にハワイで開かれた第7回世界選手権大会では見事3位となったのだった。

敬老引退者ホームで練習する「デイゴ」のメンバーら。前列右端が当山勝正さん、後列中央がタイラ・シゲルさん

こうした勢いの中、4、5年前からは新年会も催すようになった。一昨年は開催の知らせが間際になってからだったが、それでも、会場となったウエストコビナにある「イースト・サンゲーブルバレー日系人会館」に40家族が集まった。タイラさんの妻エミリアさんの尽力で、アルゼンチンだけでなく、ペルーの二世も参加した。

しかし、他の多くの日系団体と同様、「デイゴ」にもメンバーの高齢化の波が押し寄せている。発足当時は100人近くがゲートボールに関心を示していたが、実際に毎週プレーをするようになったのはそのうちの40人ほど。それが現在は10数人に減ってしまったという。

高齢化に加え、子どもたちの成長ということもあったようだ。子どもたちが小さいころは家族と一緒にゲートボールに来て、子どもたち同士で遊んでいたものだが、大きくなるといろいろと忙しくなり、学校などで家族の手も掛かるようになって、以前は夫婦でプレーしていた人たちが「出てくるのは亭主だけになった」(当山さん)。

それでも、「今年は7月にアラスカに行き親善ゲームを行い、その後9月には上海で開かれる世界連合の選手権大会に出場する」と、「デイゴ」のメンバーらのゲートボールに対する熱意は、衰えるどころか、ますます強まっているように見受けられる。日曜日にはボイルハイツの敬老引退者ホームの庭と、グレンドーラにある公園とで交互に練習を積み重ねている。「デイゴ」が再び国際的な舞台で花を咲かせるのは間違いなさそうだ。

2009年の米国独立記念日(7月4日)にグレンドーラの公園で開かれた「アサド」のピクニックでの集合写真

© 2010 Yukikazu Nagashima

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