ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2010/2/24/40-families/

40ファミリーズ・ヒストリー・プロジェクト -20世紀初頭のパロスバーデスに住んだ日本人移民・地元図書館が記念写真の40家族の歴史をたどる-

「写真を見ていて、彼らは誰なのかしらと思ったのです。どの人とどの人が家族なのか、家族をひとまとめにできないかしらと」

パロスバーデス図書館地区(Palos Verdes Library District)の司書、マージーン・ブリンさんは、勤務するペニンシュラ中央図書館の郷土史ルームの壁にかかる、日系人家族たちの写真を見て思いついた。

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中央下部に記された写真説明には、漢字で「北米合衆国加州サンピドロ港に於ける農業組合ホール落成式記念撮影 大正十二年十一月弐四日」とある。パロスバーデス半島南部に建設された日系の農業組合施設の開館を祝って撮影されたもので、撮影日は1923年11月24日ということらしい。一人一人数えると、男女子ども合わせ総勢187人。農業を営んでいたというだけあって、どの顔も日焼けしている。ほぼ全員が日本人/日系人だが、中央に3人だけ白人の姿が見える。後の調査で宣教師ということが分かっている。

ブリンさんのお話を進める前に、パロスバーデスと日本人移民について述べておこう。パロスバーデス地区は、ロサンゼルス郡の一部で、ダウンタウンの南西に当たる半島部分。気候がよく、風光明媚なことから白人裕福層の多い高級住宅地とされている。多くの日系企業が進出しているサウスベイ地区に近いため、余裕のある日本人駐在員らも住んでいる(もはや高級すぎて、一介の会社員には手が出せないかもしれないが…)。

けれど、ロサンゼルスに日系企業が進出するずっと以前、20世紀初頭から、ほとんど開拓されていなかったパロスバーデス半島南部に日本からの移民が住みついていたことをご存知だろうか。当時、言葉も通じない異国で移民が生きていくとしたら、農業が一番手っ取り早かった。彼らはアメリカ人地主から土地を借り受け、農業を始めたのである。移民の作る農作物はロサンゼルス一帯の食卓にのぼった。トマト、セロリ、ひよこ豆…、車のない時代だったから、収穫期には馬車でダウンタウンまで運ばねばならなかった。当時パロスバーデス半島南部に住んでいたのは、ほとんどが日系人だったというが、労働力としてメキシコ人移民を雇っていた日系農家もあったという。

パロスバーデスの歴史を語る上で、日系人の存在を抜きにすることはできない。しかし、悲しいことに日系人の役割は、かの郷土史からはしばしば抜け落ちることが多かった。ブリンさんのプロジェクトは、こうした“忘れ去れた”郷土史にスポットライトを当てるものだ。日系人のリチャード・カワサキさんらボランティアの協力を得て、40家族の調査が始まったが、日本人移民の子孫たちの話を聞くうち、名前を判明させるだけではもったいないと分かった。彼らの語る移民たちのストーリーも併せて収集しようと、「40ファミリーズ・ヒストリー・プロジェクト」がスタートしたのだ。

最初は、図書館でオープンハウスを開き、地元の日系人を集め、写真を見てもらうことから始めた。「この人、私のおじいちゃんじゃないかしら」。少しずつ名前が集まり始めたころ、一人の日系人の訪問を受けた。プロジェクトの情報を聞きつけたマツオ・ヒロセさんが、写真を見に図書館にやって来たのだ。ヒロセさんの家族は当時、パロスバーデス半島南部に農場を所有していた。写真にはまだ小さかったヒロセさんの姿はなかったが、父はしっかり写真に納まっていた。さらにヒロセさんは、近所に住んでいた隣人たちの記憶をたぐりよせ、数人の顔と名前を一致させたのだ。

移民たちのストーリーを収集するリチャードさんは、日系人の農作物で特にトマトが評判だったと聞いた。「しかもトマトは、地面に植えたその時にコップ一杯の水をやれば、それで終わりだったそうですよ。後は、雨と海からの霧で水分は十分摂取できたというのです。またこんな話もあります。サンペドロには、漁師のイタリア人移民が住んでいましたが、彼らの食生活にトマトは欠かせません。ですから日系人のおいしいトマトと、彼らの魚を交換していたというのです」

ブリンさんたちは、情報提供を待っているだけではない。当時の日系人の史実資料を全米各地から取り寄せ、パロスバーデスに住んでいた記録がないか調査しているのだ。FBIが作成したパロスバーデスの居住地図をはじめ当時の日系人の資料を持つUCバークレー校、20~30年代の国勢調査、さらに外国人登録証の記録は米国立公文書館にある。あちこちから当時の日系人の記録を得て、40家族を割り出しているのだ。これまでに、およそ25家族が判明。プロジェクト名は“40家族”だが、当時の日系人の数から、およそ50~60家族(世帯)が写真に納まっていると推測している。

リチャードさん(左)とマージーンさん(右)

プロジェクトがスタートして5年、日本人移民の歴史をたどるのは簡単ではない。移民の移動が激しかったとはいえ、当時の日本人移民の子孫がほとんどパロスバーデスに残っていないのは、パールハーバー(1941年)後、日系人強制収容所への連行が大きく影響しているからだろう。日系人に土地を貸していた地主は、適性外国人隔離令(大統領令9066号)の発令前に、悪化する対日感情から、日系人に立ち退きを求めた。収穫期を前に泣く泣く立ち退いた日系人たちは、その後収容所へ送られたのだ。

やがて終戦となり自由の身となったもののパロスバーデスに戻った日系人はわずか5家族だった。「そのころにはもう日系人は農業に興味をなくしていました。子どもたちは成長し、大学に行っていましたから。(差別から)仕事はありませんでしたが、多くの日系人たちはもっと都会のサウスベイ地区に住むことを好んだのです」(リチャードさん)。また終戦後、日系人がパロスバーデスに戻ることを歓迎しない、住人の反日感情が残っていたことも否めない。

ブリンさんたちは、“忘れ去られた”郷土史を呼び起こすために、これからも調査を続けていくつもりだ。国立公文書館からは次なる日系人の記録が送られてくることになっており、また一人、日系人の歴史が掘り起こされるかもしれない。そうして集まったデータは、図書館で一家族ずつファイルに整理し保管してある。ブリンさんは願う、「パロスバーデスで農業を営んでいた日本人移民の先祖を持つ子孫たちに来てもらいたいですね。そしてフォルダーを開いて、先祖たちがどんなことをしていたか知ってもらいたいのです」

* * *

「40ファミリーズ・ヒストリー・プロジェクト」については、ウェブサイト http://www.40families.org/ まで。情報は随時受け付けている。

Peninsula Center Library:
PVLD Local History Department
(310) 377-9584 ext. 213
Local History Room Hours:
Mon - Thurs: 10-4pm
Fri: 1-4pm
Sat: 10-1pm

© 2010 Yumiko Hashimoto

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執筆者について

兵庫県神戸市生まれ、97年よりロサンゼルス在住。日系コミュニティ紙に編集者としての勤務していたが、近年はフリーランスライターとしてローカル情報を 中心に記事を執筆。日本にいたころは、第二次世界大戦時の強制収容所はおろか、“日系人”という言葉さえ、耳にすることもなかった。「日系人の存在を少し でも身近に考えてもらえれば」。その思いで「ディスカバー・ニッケイ」のサイトに寄稿している。

(2008年10月 更新)

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